2024.02.13 11:39
【ウェブ限定エッセー】バイカオウレンの「白い花」は「花」じゃなかった……。牧野富太郎博士とのただならぬ関係も
高知県立牧野植物園デザイナーだった里見和彦さん(66)が定年退職後の日々をつづったエッセー「定年のデザイン」が出版されています。高知新聞に連載されて好評だったエッセーの書籍化で、掲載された70編に書き下ろし30編を加えた増補版です。今年の高知県出版文化賞も受賞しました。本書には博士のバイカオウレンに対する深い愛情をつづった文章も掲載されています。この連休中にバイカオウレンをご覧になられた方、これから見ようと思っている方に、バイカオウレンについて書いたエッセーをお届けします。里見さんのイラストによる花の分解図も、ぜひご参考に。
退職後をどう生きよう? 里見和彦さん「定年のデザイン」刊行 高知新聞人気エッセー待望の書籍化!新たに30編書き下ろし
バイカオウレン夢想
バイカオウレン(梅花黄蓮)は牧野富太郎博士が愛した花だ。早春を告げるといわれるこの花が県立牧野植物園や佐川町の牧野公園など、県内各地で見られる季節がきた。さむ空の下、樹々の足元で小さな白い手のひらを広げているようにも見える姿は、ほんとにかわいらしい。
晩年、病床の博士のもとに故郷から届けられたこの野草に、博士は頬ずりしたという。
僕が勤めていた牧野植物園には、博士が描いたバイカオウレンの精密な植物図9点(うち8点は部分図)が保管されている。それらは明治25年の初春から4月にかけて彼が佐川で描いたものだ。まず別々の紙片にがく、花弁、葉、根などを細かく描き、最後にそれを一枚の和紙に再構成して描いている。葉先の切れ込みや、葉脈に生える毛なんかまで、克明に描写した図をジーッと観(み)ているうちに、僕は牧野さんとバイカオウレンのただならぬ関係を感じるようになった。
明治24年(図が描かれた前年)29歳の牧野さんは、家財整理のため佐川へ帰郷している。新種ヤマトグサの日本初の学名発表、『日本植物志図篇』の創刊など、輝かしい業績の影で、様々(さまざま)な不運が牧野さんに起こっていた。深い愛情を注いで彼を育てた祖母浪子の死、それによる実家からの仕送りの停止、東京大学の教授からは研究室への出入り禁止を言い渡され、それならばと、師と仰ぐマキシモヴィッチ博士の下での研究を望んだロシア行きも、博士の急逝によってはかなく消えてしまう。そんな中、牧野さんは所帯を持ったばかりの妻、寿衛(すえ)を東京に残し、ひとり佐川へ帰ってきたのだ。
学歴を持たず組織に属さず「日本の植物学の向上」という大きな目標を立てて土佐から上京した牧野さんは、自由人であることの気楽さと引き換えに、ひとつの危機を迎えていた。(この後もいっぱい危機が来るんだけど)
そして佐川での牧野さんについての僕の幻想がはじまる……年が明け、まだ寒い2月頃、何もかも停滞したように思える霜の降りた朝、牧野さんは気分転換に生家の裏山の金峰神社へ向かう。幼い頃、近所の友と遊んだ神社の石段の「手洗い石」に氷が張っている。屈託を抱えたまま石段を登る牧野さんの吐く白い息は杉林に消えていく。
久しぶりに登った神社の薄暗い木の下、牧野さんの目に映る小さく白い群れ。
苔(こけ)むした地面にバイカオウレンの花が、まるで自分が来るのを待っていたかのように昔のままにひっそりと咲いている。牧野さんは古い友だちにあったような気分になった。懐かしい、小さな花との再会。
牧野さんは部屋に戻ると植物図を描きはじめる。バイカオウレンの生命が面相筆の先から吸い上げられ、心と体に注がれていく。
来る日も来る日も、描くことに集中するうちに憂鬱は消えていく。最後の全体図を描き上げた時、牧野さんの顔にはきっとあの笑みが戻っていただろう。
晩年、病床の彼はまたバイカオウレンに再会する。そして幼い日の思い出とともに、29歳の頃あきらめかけていた植物学への情熱を思い出させてくれた、この特別な花に頬ずりをしたのだ……。
植物園を退職し、フリーの牧野ファンに戻った僕は本人が語っていない部分を想像で埋めていく事のできる自由さを感じている。これもひとつの僕の「定年のデザイン」なのだ。(文とスケッチ・里見和彦=展示デザイナー・高知市愛宕町在住、 2019.2.13掲載)
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