2023.09.20 08:40
関東大震災から植物標本救った「らんまん」万太郎 史実の牧野富太郎は渋谷で被災 東京郊外への引っ越し決意
©️NHK
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朝ドラ「らんまん」の万太郎(神木隆之介)も、この大地震に遭遇しました。この時、ドラマでは万太郎は東京・根津の長屋の膨大な植物標本がある部屋にいました。
多くの家屋が倒壊しました。昼食時であったことから、各地で火災も発生します。しかし万太郎は避難することよりも、火災から標本を救い出すことを優先しました。
実際の牧野富太郎も関東大震災を経験しています。61歳の時でした。当時は渋谷に住んでおり、その膨大な植物標本は神戸の資産家である池長孟が買い取って、神戸に保管されていました。しかし、この経験によって牧野は自分の書籍や標本を守るため、さらに渋谷から東京郊外へ引っ越すことを決意します。このことを取り上げた連載記事をご覧ください。
『淋しいひまもない 生誕150年牧野富太郎を歩く』(46)天変地異に興味
家賃が払えなくなり、家主から借家を追い立てられる。その繰り返しだった。
牧野富太郎と寿衛の引っ越しは、およそ20回にも及ぶ。東京の根岸に所帯を構えてから、標本と書籍はどんどん増え続け、子どもも次々生まれた。そのため、どうしても大きな家が必要だった。
〈家計の方面では何時も不如意(ふにょい)勝ちで、長年の間妻に一枚の好い着物をつくってやるでなく、芝居のような女の好く娯楽は勿論(もちろん)何一つ与えてやったこともないくらいであったのですが、この間妻はいやな顔一つせず、一言も不平をいわず、自分は古いつぎだらけの着物を着ながら、逆に私たちの面倒を、陰になり日向(ひなた)になって見ていてくれ、貞淑に私に仕えていたのです〉(自叙伝)
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1923(大正12)年9月1日、正午直前のことであった。相模湾を震源とするマグニチュード7・9の大地震が発生した。関東大震災である。61歳の牧野は東京・渋谷の自宅書斎にいて、さるまた姿で植物標本を見ていた。
〈元来天変地異というものに非常な興味を持っていたので、私はこれに驚くよりも心ゆく迄(まで)味わったといった方がよい〉(同)
科学者らしい態度と言えるのだろうが、自宅や近辺の被害が小さかったからの余裕でもあっただろう。日本の植物分類学もある面、救われた部分がある。その当時、30万点に及ぶ牧野の植物標本が神戸に保管されていたが、自宅の書斎にも貴重な植物標本は山積みだった。
地震の被害は甚大だった。死者・行方不明はおよそ14万人に上った。
寿衛は心配した。東京の中心地は危ない。植物標本や書籍を守るためにも郊外へ引っ越そう、と。
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練馬・東大泉の自宅前に立つ牧野富太郎(1929年ごろ、高知県立牧野植物園所蔵)
関東大震災の3年後の1926(大正15)年、現在の東京都練馬区東大泉に家を建てた。場所選びやらなにやら、およそ一切は寿衛が進めた。
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東大泉に居を構えた翌年に牧野は理学博士の学位を得た。学問上の呼称で言えば、65歳にしての「牧野博士」の誕生だった。
しかし、牧野は言う。こんな称号は、つまらないものだと。
〈私は従来学者に称号などは全く必要がない、学者には学問だけが必要なのであって、裸一貫で、名も一般に通じ、仕事も認められれば立派な学者である。学位の有無などは問題でない、と思っている〉(同)
アカデミズム、というものを牧野は憎んだ。そういう気持ちが強く表れている文である。博士号の取得には、そのための論文提出が必要だったが、これを「意地を張って断ってきた」という。しかし、周囲の要請を断り切れなくなって、やむなく出すことになった。
〈私は、この肩書で世の中に大きな顔をしようなどとは少しも考えていない。(中略)大学へ入ったものだから、学位を押(おし)付けられたりして、すっかり平凡になってしまったことを残念に思っている〉(同)
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練馬・東大泉の家は、牧野夫妻にとって、ついのすみかとなるべき新居だった。
しかし、もう寿衛に残された時間は少なくなっていた。寿衛が身体に不調を訴えるようになった。そのころ、牧野は東北、仙台の地でかけがえのない植物と出合う。(2013年.3月11日付、社会部・竹内一)
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■牧野博士の「真実」浮き彫りに 最新評伝「シン・マキノ伝」刊行 練馬区牧野記念庭園の田中純子学芸員執筆