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2024.01.18 08:00

小社会 土佐路の江藤新平

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 佐賀の乱に敗れた江藤新平が土佐へ逃れたのは1874年3月。土佐に潜行し、政府高官時代の仲間らを訪ねたが、不在で会えないなど事態は好転しない。陸と海路で10日余り、土佐を西から東へと逃げ続けた。

 政府への反逆者とされた中、必死の逃亡ではあったろう。しかし伝承を読む限り、惨めな逃避行とも見えない。土佐の板垣退助らと国会開設を1月に上申して2カ月。俊才で知られた彼は、胎動しつつある自由民権運動の随一の理論家だった。土地土地で歓待され、地域の豪邸に泊まる。庶民との逸話、記録も多い。

 幡多中村の双海では、お鶴さんというハチキン女性の家に一泊し、同行者を付けた高知行きの船も手配してもらったが、江藤は船上で食べた餅を「まずい」と吐き出してしまう。その後双海では、まずい食べ物を「江藤のやなか餅」と言い伝えた。

 夜須の手結山の茶屋「琴風亭(きんぷうてい)」で接待した、お次さんの証言も大正期から残る。江藤はあん餅を食べ、高価な紙幣2枚を置いて去る。その数日後、甲浦で捕縛され、移送途中にその姿が再び見える。お次さんは胸がふさがり、札のお礼も言えずに引き下がった。

 東京遷都、司法改革といった数々の国家施策に貢献した傑物は、正当な裁判すら受けられず40歳で刑死した。没後150年。

 甲浦には後世の青年たちが「江藤新平君遭厄(そうやく)地」の石塔を残す。長大な石の迫力と、揮毫(きごう)に込めた人の思いが胸に迫る。

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