2024.01.03 14:47
「え、薄っ!」封筒に入った初任給は9万6千円。それでも払い続けてきた年金が帰ってきた【定年のデザイン無料試し読み④】担当編集者が選んだ7編をどうぞ!
退職後をどう生きよう? 里見和彦さん「定年のデザイン」刊行 高知新聞人気エッセー待望の書籍化!新たに30編書き下ろし
お帰り、僕の年金
今年の2月に62歳になった僕は、先月から「特別支給の老齢厚生年金」を受給しはじめた。
今も覚えているのは1980年の春、東京の社員数300名の展示会社に就職した僕が、待望の初給料を部長から現金入り茶封筒で手渡たされた日のことだ。「え、薄っ!」と思った。税金やら年金保険料やらが引かれた封筒には9万6千円入っていた。僕は会社帰りに銀座三越へ寄り、美大の授業料を払い続けてくれた父にネクタイを買った。
あれから40年、労働の対価としてのお金を毎月得ながら税金も年金保険料もひたすら払い続けてきた。
26歳のときに無謀にも会社を飛び出し、友人とデザイン事務所をはじめた僕は、技術も実績もない中で、待っていても仕事は来ないんだという現実に気がついて、相棒と街に出てビラを配り、仕事をつかんでいった。最初に描いた建築パース(完成予想図)は3日もかけて描いたのに5千円しかもらえず「いったいオレたち、何枚描いたら人並みに暮らしていけるんだろうね?」と、未来には暗雲がもくもくたちこめていた。
あのころのことを思い出すと冷や汗と笑いがこみ上げてくる。相棒と一杯のカップうどんを分けあって飢えをしのいだ夜や、打ち合わせで行った門前仲町駅の改札口で電車賃が足りなくて外へ出られず公衆電話から相棒に連絡して300円を届けてもらったこともある。それでも毎日が楽しかった。広い宇宙の中で、僕と彼とは失敗をくり返しながらも自分の力で生きているという実感があった。そして、そんな時にも年金は払っていた。
僕たちは一つひとつの仕事をこなし、技術と実績を積み重ね、15年後、僕の描く完成予想図は1枚15万円くらいになった。従業員が増え経営も安定してきた。僕は次第に博物館の展示デザインの仕事を中心に手がけるようになっていった。
42歳のとき、初めての故郷の仕事である「牧野富太郎記念館」の展示デザインを完成させた僕は、縁あって採用試験を受け、牧野植物園に就職した。給料は東京時代と比べると半分くらいになったけどあまり気にせず以前よりも精力的に仕事をした。高知に帰る時、ほかの事情もあって離婚し、二人の子どもとも別れわずかな貯金もほとんど東京に置いてきたので、ふたたび26歳の時のように、ゼロからのスタートになった。そして給料の半分以上は、毎月東京に養育費として送った。
その後も紆余(うよ)曲折があり、経済状況はいつもさっぱりしたものなんだけど、僕は仕事が好きで、仕事をすることが喜びで、経済的な裕福さよりそれが勝ると思っているところがあり、今の妻(副社長)は僕のそんな考え方とか金銭感覚を理解してくれていて、彼女自身もそういう面では、かなり楽天的な人である。
そしてそんな僕に、40年前からひたすら払い続けてきた年金が、ついに戻りはじめたのだ。「やあ、僕の年金よ、お帰りなさい!」という気分だ。僕と妻はこれを基本的な生活費として大切に使い、「定年のデザイン」的なポジションで自分たちにしかできない仕事をして、そこから得た収入で、樹の幹がすこしづつ年輪を重ねていくみたいに仕事も生活もゆたかにしていきたいと思っている。
こんなウブな経済感覚で大丈夫かなとも思うけど、そんな時は、誰よりもお金で苦労した牧野富太郎さんの口ぐせを思い出すことにしている。
「まぁ、なんとかなるろう」
(文とスケッチ・里見和彦=展示デザイナー・高知市愛宕町在住、2019.7.10掲載)