2023.09.25 08:45
「らんまん」万太郎が残した膨大な植物標本 整理アルバイトの藤平紀子(宮崎あおい)にもモデル 牧野富太郎博士の40万点はどうなったのか
©️NHK
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万太郎の貴重な植物標本は東京都に寄贈されることが決まっていました。しかし、新聞紙に包まれた植物たちは、いつどこで採集されたのかを明記する必要がありました。万太郎自身の標本のほか、全国各地から標本を送られてきていました。その作業の大変さは、万太郎の家族ばかりでなく、植物分類学者も呆然とさせていたのです。
ドラマでは槙野家に藤平紀子(宮崎あおい)という女性がやって来ました。昭和33年夏のことです。前年に万太郎は亡くなっていると考えられます。女性のアルバイトは植物標本の整理でした…。
さて実際の牧野富太郎博士が所蔵していた植物標本は、その死後にどうなったのでしょう。ドラマに登場した標本を整理する女性にも立場は違いますが、史実に沿ったモデルがいると考えられます。そのあたりのことを書いた高知新聞の連載記事をご覧ください。史実に寄り添ったドラマの面白さが分かると思います。
『淋しいひまもない 生誕150年 牧野富太郎を歩く』(66)まずは標本清掃から
牧野富太郎の年譜を眺めていて、たびたび思うことがある。
せめて、あと1年の命が彼にあったらな、と。
高知県立牧野植物園、東京都立大学牧野標本館、練馬区立牧野記念庭園の三つの施設がオープンしたのは1958(昭和33)年。死の翌年のことなのだ。郷里にできた念願の植物園、自らの植物標本を整理保管する施設の完成、それらを見届けたかったであろう。
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都立大に収められた標本は、牧野が亡くなる5年ほど前から国が整理を始めたものだった。
文部省は51年、「牧野博士標本保存委員会」を設置する。そのメンバーの一人に、高知市出身の植物学者がいた。東大植物学教室で牧野の教えを直接受けた故伊藤洋さん(1909~2006年)である。伊藤さんは1985年の本紙のインタビューで、こんなふうに語っている。
―牧野博士のコレクションの整理は、伊藤先生が中心になって作業されたんですね?
「中心ではないですが、段取りは私がしました。牧野先生は植物を採集し、研究し、論文を書くと、後の標本はカスだというお考えのようでしたから、どんどん束ねて新聞にくるむと、『標品館』の天井まで積み上げてあった。ネズミの巣がいっぱいありましたよ」
カス、というのは言い過ぎなのかもしれないが、無造作に置かれていた様子は伝わってくる。
伊藤さんはシダ類を専門とし、ほかにも一線で活躍している植物学者たちが集められていた。「標品館」は牧野の自宅内に建てられたもので、作業はすぐ隣にあった夏休み中の小学校を借りて行われた。
まずは植物の「科」の分類からスタートした。40万点の標本である。これだけでも暑い時期の大変な作業だったであろう。
東京都立大の牧野標本館。牧野博士に関する約16万点の標本が収容されている(写真はいずれも東京都八王子市)
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落成式から4年の歳月が流れた62年。都立大理学部近くで、駒沢オリンピック公園建設工事の槌音(つちおと)が響いていた。東京五輪を2年後に控えたこの年、25歳だった山本正江さん(76)は都立大理学部の門をくぐる。
牧野標本館は鉄筋2階建ての立派な建物だった。山本さんはここでアルバイトをしようと思った。その面接のため、呼び出しブザーを押すと、思いのほか大きな音が鳴って、びっくりしたことを覚えている。
牧野は職人的ともいわれる手際の良さで、見た目にも美しい植物標本を作っていた。しかし、保存場所が良くなかった。標本整理の臨時職員として採用された山本さんが見たのは、長い歳月を経て、ほこりにまみれていた標本だった。
牧野標本を「清掃」することから仕事は始まった。
この時は、まさかこの標本整理を40年も続けることになるとは思ってもいなかった。(2013年5月23日付、社会部・竹内一)
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