2023.06.19 11:30
牧野日本植物図鑑とは何なのか【復刻】「名声確立した図鑑」―連載「淋しいひまもない―生誕150年牧野富太郎を歩く」
牧野日本植物図鑑(高知県立牧野植物園所蔵)
朝ドラ「らんまん」で寿恵子(浜辺美波)は万太郎(神木隆之介)に問います。万太郎は石版印刷を学んでいたことを告げ、完成した「植物学雑誌」を手渡します。寿恵子は分かっていました。この雑誌が万太郎にとっては「序の口」のものであることを。
実際の牧野富太郎博士も同じように考えていました。博士の志は日本の植物の全てを明らかにしたい、というものでした。そして、その結果として日本の植物図鑑が必要だと考えていました。「植物学雑誌」は、その大きな試みの第一歩でした。そして間もなく、牧野博士は自ら描いた精緻な植物図を掲載した「日本植物志図篇」や「大日本植物志」を刊行しました。しかしそれらは断片的なものであって、全てを網羅した「植物図鑑」には、ほど遠いものでした。
ドラマで寿恵子は、植物図鑑を完成させることを約束してほしいと、万太郎に言います。寿恵子は愛読する滝沢馬琴「南総里見八犬伝」が全98巻106冊の大著だということを挙げながら「必ずやり遂げてください」と迫ります。そして、それが私の大冒険なのだと。
牧野博士の研究の集大成となる「牧野日本植物図鑑」が刊行されたのは昭和15(1940)年のことでした。博士78歳でした。
牧野日本植物図鑑とは何だったのか。過去の連載記事を復刻しました。
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名声確立した「図鑑」 「淋しいひまもない 生誕150年 牧野富太郎を歩く」(51)
しかし、それにしても、なぜ植物なのか?
牧野富太郎はそう問われるたび、困惑した。
〈私は飯よりも女よりも好きなものは植物ですが、しかしその好きになった動機というものは実のところそこに何もありません。つまり生まれながらに好きであったのです〉(自叙伝)
牧野の同時代、その以前と以後にも、たくさんの植物学者がいた。しかし、これほどに有名な学者はいない。
その名声を決定的に確立した書物は、1940(昭和15)年に刊行された「牧野日本植物図鑑」である。牧野78歳だった。
19歳で上京してから、植物学者を志した。日本のすべての植物を明らかにしたい―生涯を貫いた大望は、土佐の植物誌編さんから始まった。そして半世紀以上を費やし、さまざまな挑戦と挫折も経て、ようやく一つの完成を見たのだった。
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「図鑑を発明したのは牧野富太郎だ」と一般に言われる。
「牧野日本植物図鑑」(以下、牧野図鑑)は、当時の四大取次店に数えられていた北隆館から出版された。初版第1刷は5千部だったが、すぐに売り切れて増刷を重ねたという。
現在、牧野図鑑には学生版やコンパクト版など、さまざまなスタイルのものがある。版元の北隆館によれば、「牧野」を冠する図鑑の総発行部数は、これまで40万部に達する。今も売れ続けている驚異的なロングセラーだ。
「図鑑」というものが売れる。それは、牧野図鑑が出た当時の出版業界には驚くべきことだった。北隆館も牧野図鑑に続いて、「日本動物図鑑」「日本昆虫図鑑」を刊行する。ここに現代につながる「図鑑」がスタートした、と言える。
しかし、図鑑を「牧野の発明」というのは、正確な表現ではないようだ。牧野図鑑刊行の以前、別の植物図鑑も出版されていた。この辺りの出版競争の事情も面白いので、後述する。
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本当に驚くべきことだが、今も牧野図鑑は現役の本である。今この瞬間にも、誰か人の手でページが繰られているだろう。図鑑に収められた植物図を凝視し、説明文を熟読しているだろう。
およそ植物を研究する専門機関や施設の中で、牧野図鑑を置いてない所はないだろうし、専門家ばかりでなく、植物愛好家たちにも必携の図鑑として広く使われている。
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東京、調布駅。近くの喫茶店で待ち合わせた。
牧野に教えも受けた、その人が取り出した牧野図鑑(学生版)は、よく使い込まれていた。(2013年4月16日付、社会部・竹内一)
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