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2023.05.07 08:30

危篤の病床からも仕事の指図「シン・マキノ伝」=第6部=【71】田中純子(牧野記念庭園学芸員)

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晩年の牧野富太郎(個人蔵)

晩年の牧野富太郎(個人蔵)



 昭和32年1月18日に牧野富太郎は息を引き取った。牧野の病状が思わしくなくなってからは、新聞記者たちが詰めかけ博士の容体を逐一レポートしたという。博士は100歳まで生きることを目標としていたと思われる。「百歳に尚道遠く雲霞」と詠んでいるからである。牧野の先達であり、初上京の折に牧野が自宅を訪れた伊藤圭介が亡くなったのは、数えで99歳のときであった。その圭介を越えて、長生きしたい、研究に勤しみたいという思いがあったのではないかとみる。確かに牧野にはやらねばならない、やり遂げたい仕事が残されていた。これについては前回の終わりでも触れたが、逝去の日の記事(読売新聞)にも記述があるので、今回は具体的に見ていきたい。

ノジリボダイジュ(久内清孝採集、東京都立大学牧野標本館蔵)

ノジリボダイジュ(久内清孝採集、東京都立大学牧野標本館蔵)

 牧野は危篤状態になっても仕事の指図に忙しく、遺体を解剖してほしいという希望のほかにこの仕事の指図が「遺言」であったという。第1の指図は「日本植物原色図譜」と牧野の書いた随想録や研究発表などをまとめた「牧野渾々(こんこん)録」である。牧野は危篤の病床にあっても「早く本屋を読んで出版の話を片付けなさい」と繰り返し次女の鶴代に指示していた。「何とか生前に」という周囲の人たちの思いで、同図譜の第1集が近く出版されることになった。「牧野渾々録」の原稿はほとんど出来上がって、牧野の高弟である植物学の研究者の校閲を待ってこちらも近く出版される。そして、図譜も第2集、第3集と弟子たちの編集で進められるという。次に、牧野の指図とはいえ、医者の意見でやめたものがあった。それは「諏訪湖の北岸の堤の左側にあるシナノキが見たい」という「指図」があって手配しようとしたが、それを見ることで興奮させてはという医師の見解で取りやめになった。したがって博士の霊前に供えるのはこのシナノキが何よりもふさわしいことになる。同様に果たされなかった指図として、「鳩山さん」の乗っていた手押し車の注文も実行されなかった。これに乗って庭の草花の間を「植物の精」のように歩きまわりたいと思ったのであろう。また、解剖の希望に関連して、牧野は植物学とともに医学にも貢献したということである。というのは、付きっきりで牧野の診察・看病に当たったのは、東京大学日野助教授ら物療内科のスタッフであるが、その治療日誌は未開拓の分野が多い老人病学に貴重なデータを提供するものとなったからである。

 さて、牧野が見たいと望んだ「シナノキ」に関連する記事「牧野先生と採集を約束した最終の植物」(「採集と飼育」第19巻第6号、1957年所収)がある。執筆者は篠崎信四郎。東京植物同好会会員で、「植物研究雑誌」に同会による採集会のレポートなどを寄稿している。それによれば、牧野が戸外に自由に出られなくなってからはその代行を頼まれる人たちがいて、篠崎もその一人であった。届けられた植物を前にした牧野の様子について篠崎はこう回想する。「採集物を先生に差しあげて、特に大喜びなされた時と、殊のほか不機嫌であった時のことは私の脳裡にこびりついて、忘れることがございません」と。篠崎は、度々牧野が危篤になってからお宅に参上したが、刺激や興奮を与えないように話をすることは控えていた。昭和31年12月15日に伺った時は、ちょうど牧野が篠崎に来てもらおうとはがきを認めたところであったが、注射で興奮していたため眠ってから寝顔を拝したという。そのはがきは、ほとんど付き添いの看護師が書いたもので用件も良く分からずに認めたもので、篠崎が判読したところ「長野県の或駅の東方に湖水があり、其湖畔にミズニラとシナノキの変わったものがあるから、それを採って来て欲しい」ということであった。駅の東方の湖というのは知り合いに尋ねて野尻湖であろうと推定し、その湖にはミズニラがあることが分かったが、12月下旬に野尻湖に行っても採集はできないので、「信濃路は雪にうもれて野尻湖のミズニラ見えじ春には狩らめ」と認め、来春の採集を約束した。しかし、それが果たせないことになり、霊前に捧げる心組みであると篠崎は述べている。この記事を篠崎が書いたのは牧野が亡くなった翌2月である。そして、「シナノキの変わったもの」が分からなかったが、「ノジリシナノキ」という久内清孝(55回目に登場)の教示があったという。

 牧野は、九州から送ってもらったヘラノキを大泉の自宅に植えたが、さらにその隣にウスバシナノキがあったということを「植物随筆 我が思ひ出(遺稿)」(北隆館、1958年)に書いている。練馬区立牧野記念庭園ではヘラノキは健在であるが、ウスバシナノキはすでにない。ヘラノキについては49回目で述べたが、ウスバシナノキもヘラノキと同様に九州の原田万吉から送られたもので、牧野は新種として原田に献呈した学名をつけた。どちらもアオイ科シナノキ(Tilia)属で、牧野は晩年に関心をもっていた植物であったと思われる。遺言となった「シナノキの変わったもの」もその仲間であろう。

 ところで久内の「ノジリシナノキ」であるが、「植物研究雑誌」第13巻第3号(1937年)には「新間種野尻ぼだいじゅ」という記載報告がある。久内が野尻湖畔の森で見つけたシナノキとオオバボダイジュの交雑種である。この標本が東京都立大学牧野標本館に収蔵されている。その標本には、最近入手したものをご覧に入れますと書かれた久内の名刺が貼り付けてあった。採集年は分からないが、名刺の住所が「東京都太(ママ)田区」とあるので太平洋戦争後のことであろう。ノジリボダイジュとノジリシナノキは違うものなのか、同じものなのか、また、牧野が言う諏訪湖にある「シナノキ」はこれらと違うのか、今となっては分からない。(田中純子・練馬区立牧野記念庭園学芸員)
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 長期連載企画「シン・マキノ伝」は、生誕160年を今年迎えた高知県佐川町出身の世界的植物学者・牧野富太郎の生涯をたどる最新の評伝です。筆者は東京の練馬区立牧野記念庭園の田中純子・学芸員です。同園は牧野が晩年を過ごした自宅と庭のある地にあり、その業績を顕彰する記念館と庭園が整備されています。田中学芸員は長らく牧野に関する史料の発掘や調査を続けている牧野富太郎研究の第一人者です。その植物全般におよぶ膨大な知識の集積、目を見張る精緻な植物図の作成、日本全国各地の山野を歩き回ったフィールド・ワーク、およそ40万枚もの植物標本の収集、そしてその破天荒ともいえる生き方……。新たに見つかった史料や新しい視点で田中学芸員が牧野富太郎の実像を浮き彫りにする最新の評伝を本紙ウェブに書き下ろしています。
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 たなか・じゅんこ 1964年、東京生まれ。上智大学大学院修士課程卒業(歴史学専攻)。中高等学校で教師を勤めた後、東京国立博物館で江戸から明治時代にかけての博物学的資料の整理調査に当たる。2010年、リニューアルオープンした練馬区立牧野記念庭園記念館の学芸員となり現在に至る。植物学者・牧野富太郎をはじめ植物と関わったさまざまな人たちの展示を手掛ける。

シン・マキノ伝の第1部から第5部は下記の「一覧」をクリックいただくとご覧になれます
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