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2023.03.17 08:30

「立山登頂そして故郷高知へ」シン・マキノ伝【62】=第5部おわり= 田中純子(牧野記念庭園学芸員)

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 牧野は昭和2(1927)年に理学博士号を取得した。それまでも博士にするからと言われてきたが、30年間意地を張って断ってきたと牧野は自叙伝で言う。学歴も肩書も学位もなくても、学問があればそれでよい、仕事が認められ名が世間で知られれば立派なひとかどの学者である、これが牧野の持論であり、それを貫き通してきたのである。すでに多数の論文を発表し、牧野の名も著書や採集会の指導を通してよく知られるようになってきていた。そのような牧野に、後輩が学位を持っているのに先輩の牧野が持っていないのは都合が悪いからと言って、論文の提出を強く勧める人たちがいたのである。

 その一人は三宅驥一(きいち)であったであろう。たびたびこのシン・マキノ伝にも登場しているが、牧野の植物図鑑の刊行については向坂道治とともに多大な援助をなした人物である。学位論文提出についても、次のようなエピソードが残る。すなわち「(三宅)先生は牧野先生を、エングラーに優る分類学者と常に賞賛しておられた。無欲恬淡(てんたん)の牧野先生の学位論文提出の運びにもずいぶんと苦労されたらしい。これは逸話であるが、先生は、牧野先生に学位論文提出の費用として現金100円を託されたが、牧野先生は書物の購入に使ってしまわれた…

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