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2023.02.06 08:33

出だしから船酔い―美しき座標 平民社を巡る人々 第7部「再生への船旅」(1)

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明治の頃の横浜港大桟橋

明治の頃の横浜港大桟橋

 幸徳秋水を乗せた米シアトル行きの「伊予丸」が、ゆっくりと横浜港の埠頭(ふとう)を離れたのは、1905(明治38)年11月14日午後2時ごろのことだった。

 汽笛を鳴らし、黒い煙を吐いて、船は少しずつ沖へ出て行く。桟橋で見送る平民社の仲間たちは、追いすがりながらハンカチや赤旗を振り、秋水の名を口々に叫んだ。

 甲板に立つ彼の目には、次第に遠ざかる人々の顔が分からなくなり、ただ黒山になった群衆の中で打ち振られる赤い旗だけが鮮やかに見え、やがてそれも消えていった。胸いっぱいになりながら、秋水は同行の3人と甲板に並んで、望遠鏡でいつまでも見つめていた。

 同行者は、後に画家となる15歳のおい幸徳幸衛(ゆきえ)と、青年の加藤時也、西沢八重子。このうち時也は、平民社を金銭面などで支えていた医師、加藤時次郎の長男だった。

 また八重子は、一行の目的地であるサンフランシスコに暮らす元万朝報(よろずちょうほう)記者、岡繁樹(現安芸市出身)の妻の友人。後には俳優、大竹しのぶさんの祖母となる人物でもある。

 秋水はこの旅に妻の千代子も連れて行こうと、ぎりぎりまで調整していたようだが、親族の反対や経費の問題などで結局かなっていない。…

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