2022.12.08 08:40
最後の海軍兵学生 吉村泰輔さん(高知パレスホテル創業者)語る 「戦争だけはやったらいかん」
高知大空襲後の高知市の写真を見る吉村泰輔さん。「家も掛け軸や皿鉢もみな燃えた。戦争だけはやったらいかん」(高知市升形の平和資料館・草の家)
吉村さんの実家は高知市廿代町の地主。開戦後も「米を食べるのも珍しくなかった」という恵まれた生活を送っていた。「日本の勝利を疑いもしなかった」。実際は1942年6月のミッドウェー海戦で大敗し、戦局は厳しさを増していた。
44年、慕っていた叔父が徴兵され、中国で戦病死した。結核だった。「もともと体が弱かった。悔やみを申し上げに行ったら、おばあちゃんが遺体と向き合い振り向きもしない。あの背中は忘れられん」
15歳で徴兵を覚悟し、城東中学校(現在の追手前高)から海軍兵学校に出願した。全国から選抜された第78期生4048人の一人として45年春、佐世保市に開校したばかりの針尾分校に入った。
「どうせ戦争へ行くなら将校になりたい。陸軍はゲートル巻いて歩き通しで水虫になる。海軍は制服がかっこいいし、船が沈んだらそれまで。潔く死ねる」
そんな時代だった。
■「おまえら、死ね」
吉村さんは入学に際し、自室にこんな歌の書き置きを残した。「我が家の 血筋はたとひ絶ゆるとも 皇御国(すめらみくに)は永久(とわ)に栄(は)へなむ」。万歳で見送った母は、息子がいない部屋に入っては「戦争に取られた」と泣いていた。
兵学校では、銃を背負ってのほふく前進などの教練に加え、「敵の言葉を知らずして戦えない」と盛んに英語が教えられた。「開校初年度で上下関係がなく、僕は英語が得意だった。本当に楽しかった」
ただ、入校時点で日本は各地で敗戦と撤退を繰り返していた。45年3月に米軍が沖縄に上陸。針尾分校では空襲のたび防空壕(ごう)に駆け込みながら授業が続いた。7月4日、古里の高知市が大空襲を受け焦土と化していた。同月、分校は山口県防府市に移転された。
8月15日。重大な放送があると聞きつけ、友人らと学校を抜け出し、近くの農家でラジオを聞いた。しかし雑音だらけで終戦を知らなかった。数日後、吉村さんら約50人の学生は運動場に集められ、正座させられた。分校幹部の怒号が響いた。
「日本は負けた。おまえら、死ね。目を閉じろ。死にたいやつは手を上げろ」
恐る恐る手を上げた。薄目を開けると、全員上げていた。しばらく時間が流れた。「よろしい。おまえらは死なんでもよろしい。日本の復興のために国へ帰って頑張れ」。その声はひどく優しく聞こえた。
■「半年早ければ…」
学生たちは貨物列車に乗って帰郷。岡山に向かう車中、「新型爆弾が落とされた」と聞いた広島を通過した。あぜんとした。「何をどうやったんや。きれいさっぱりなんにもない」
実家は焼夷(しょうい)弾で全焼していたが、家族は南国市などに疎開して無事だった。家族は帰郷を喜んだが、「国に身をささげるつもりでいた。複雑な気持ちだった」。「なんで戦争なんか始めたんや」。そんな怒りが湧き上がったのはしばらくたってからだった。
「勝ち目のない戦争続けて、終戦があと半年早ければ家が焼けんかった。1年早ければ叔父貴が死なんかった。指導者を自分らの手で裁きたかった」
吉村さんは後に、慶応大学に進学。東京で広告代理店などに勤め、78年に高知パレスホテルを創業し、事業を拡大させた。今は相談役に退き、趣味のピアノを弾くなどして穏やかに暮らすが、今なお世界では戦禍が止まらない。
「ウクライナが気の毒。何の罪がある? ロシア兵だって死にたい人はいないはず」。戦争の指導者に怒りの矛先を向けた。(川田樹希)