2022.10.17 05:00
「佐川の山奥にいてはいけん」シン・マキノ伝【14】=第2部= 田中純子(牧野記念庭園学芸員)
東大の矢田部良吉教授(「植物学雑誌」第13巻第154号より)
さて、牧野が出会った矢田部良吉(1851~99年)は、自叙伝では牧野の敵役としてこれから存在感が増すのであるが、どのような経歴を持つ人物であったか紹介したい。矢田部は、伊豆の出身で英学を修め、明治時代になって、開成学校の教官となり、1871年アメリカに渡り、翌72年コーネル大学に入学、4年余り在籍し卒業後、東京開成学校教授を経て明治10年東京大学が出来て理学部の教授に任命された。その後明治21年に伊藤圭介とともに理学博士の学位を授かり、24年教授の職を解かれ、28年から師範学校の教授となり、32年8月鎌倉で水泳中に亡くなった。東京大学にポストを得てから江ノ島・日光をはじめとして各地で植物採集を行い、植物標本の充実を図っていった。出張で各県に赴くのみならず、日曜日ごとに東京近郊で熱心に採集に従事した。矢田部は、江戸時代の本草学者およびその流れをくむ明治時代の博物学者とは異なり、アメリカで植物学を学び分類学を究めた人物である。「欧米風ノ植物学ヲ日本ニ創立セシ開祖」と言っても褒めすぎではないであろうと言うのは松村任三である。以上の経歴は、矢田部の急死を悼んで松村が著した「故理学博士矢田部良吉君の略伝」(「植物学雑誌」第155号、1900年1月所収)による。松村は東京大学発足当時から矢田部に師事し、採集に随伴して矢田部を補佐していた。そして、教授となって矢田部の後を継いでいく人物で、自叙伝では第2の敵役として登場することになる。(田中純子・練馬区立牧野記念庭園学芸員)
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長期連載企画「シン・マキノ伝」は、生誕160年を今年迎えた高知県佐川町出身の世界的植物学者・牧野富太郎の生涯をたどる最新の評伝です。筆者は東京の練馬区立牧野記念庭園の田中純子・学芸員です。同園は牧野が晩年を過ごした自宅と庭のある地にあり、その業績を顕彰する記念館と庭園が整備されています。田中学芸員は長らく牧野に関する史料の発掘や調査を続けている牧野富太郎研究の第一人者です。その植物全般におよぶ膨大な知識の集積、目を見張る精緻な植物図の作成、日本全国各地の山野を歩き回ったフィールド・ワーク、およそ40万枚もの植物標本の収集、そしてその破天荒ともいえる生き方……。新たに見つかった史料や新しい視点で田中学芸員が牧野富太郎の実像を浮き彫りにする最新の評伝を本紙ウェブに書き下ろします。牧野博士をモデルにしたNHK連続テレビ小説「らんまん」が始まる来年春ごろまで連載する予定です。ご期待ください。
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たなか・じゅんこ 1964年、東京生まれ。上智大学大学院修士課程卒業(歴史学専攻)。中高等学校で教師を勤めた後、東京国立博物館で江戸から明治時代にかけての博物学的資料の整理調査に当たる。2010年、リニューアルオープンした練馬区立牧野記念庭園記念館の学芸員となり現在に至る。植物学者・牧野富太郎をはじめ植物と関わったさまざまな人たちの展示を手掛ける。
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