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2016.01.14 08:00

昭和南海地震の記憶(12-終)経験者やき、呼び掛ける

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 昭和南海地震から70年の節目の年に、あらためて地震と向き合わなければ―。取材班はそんな思いで、昨秋から「昭和の被災地」を歩いた。

 津波にのまれた土佐市宇佐町、強烈な揺れと火災に襲われた四万十市、堤防の決壊で長期の浸水被害に遭った高知市。

 自宅を訪ねると、既に亡くなっていたり、福祉施設に入っていたりして会えない人もいた。「認知症で、記憶が…」と家族から告げられたこともあった。70年前を明瞭に語れる人は随分少なくなっている。

 そうした中、取材に応じてくれた人たちは「体験を知ってもらうことは大事。協力したい」「生きているうちに、何かお役に立てれば」と記憶をたどってくれた。

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「命以上の貴重品はありません」と話す横田恵さん(高知市神田)

「命以上の貴重品はありません」と話す横田恵さん(高知市神田)

 中村町(今の四万十市)で地震に遭った横田(旧姓永野)恵(けい)さん(87)=連載5、6回目=は現在、高知市で1人暮らしをしている。取材をお願いすると、伝えておきたいことを白いメモ用紙につづって待っていてくれた。

 家が頭上へ崩れてきた。梁(はり)はイモ俵の上に落ち、わずかな隙間ができた。その隙間で命が救われた…。そんな当時の様子もできる限り丁寧に回想してくれた。

 今、家の食器棚は器具で固定されている。東日本大震災後、県外に住む娘夫婦が固定してくれた。玄関前の塀には倒壊防止の鉄筋が入っている。「倒れたら避難できなくなるから」

 70年前の冬、小さな体で井戸水をくんで運び、わずかな食料を親戚や近所の人と分け合ってしのいだと振り返る横田さんは、復興の原動力は「隣近所の助け合い」と断言する。

 「あれして、これしてと行政に頼るばっかりじゃあいかんと思うんですよ。いざというときに命を守るのは自分やないですか」

 鏡川の逆流を見た岸田一さん(90)=高知市、連載9回目=は、命をつなげたのは教育のおかげです、と語った。

  未明の強い揺れ。とっさに枕元にあった座卓を手で引き寄せ、上半身を下へもぐりこませた。その直後、鉄製の重たいミシン台が座卓の上へ倒れてきた。

 「小学校に入学した初日、先生に教えられたことをぱっと思い出したがです。地震の時は机の下に入らないかん、と」

「とにかく早う逃げないかん」と話す浜田芳三さん(土佐市宇佐町)

「とにかく早う逃げないかん」と話す浜田芳三さん(土佐市宇佐町)

 夜明け前、「津波が来るぞーっ」という声が響いた宇佐町。浜田芳三(よしみつ)さん(82)=連載1、2回目=は「私は経験者やき、津波で死なれん。(次に)地震が来たら、近所のみんなあに『避難せえっ』て呼び掛けるつもりです。元気なうちは、先頭に立ってやっちゃろう思うてます」と話した。

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 昭和南海地震の被害は、中村町を含む幡多郡と高知市で突出している。

 ほかにも、須崎町や多ノ郷村など今の須崎市は大きな津波に襲われ、58人が死亡し、3人が行方不明となった。南海大震災誌は須崎について「子は親を呼び、親は子を呼び、助けを求むる悲痛な無間地獄を現出し」と苛烈な被害を記している。

 宿毛町では防潮堤が壊れて家屋や田畑が浸水し、高岡郡の山間部では土砂崩れで人が亡くなった。

 それでも、マグニチュード(M)8・0の昭和南海地震は、過去に高知を襲った1707年の宝永地震(被害から推定される地震の規模はM8・6)や1854年安政地震(同M8・4)よりも地震の規模は小さかったとされる。

 あの日から70年。次の南海トラフ地震は最大M9クラスと想定される。私たちは過去から何を学び、どう備えているか。油断はないか。問い直したい。(報道部・海路佳孝、村上和陽)=第1部おわり

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