2016.02.13 08:00
昭和南海地震の記憶(11)母と6歳の弟が…
市北部の薊野付近にある真宗寺山まで、北へ進んだ。母と弟の体はひつぎに納め、近所の人が荷車に載せて運んでくれている。多くの町は、大地震の後に流れ込んだ濁水に漬かったままだった。
■ ■
終戦翌年のこの年、守彦は高知工業学校に入学した。家族は両親と妹と弟の5人。下知地区にある弥生町の川沿いに住んでいた。弟の勲はまだ6歳。よく笑う子で、守彦はその笑顔が好きだった。
12月21日未明。激しい揺れに襲われた。家は築20年ほどの木造の平屋だった。外へ逃げ出した直後、目の前で壁やら屋根やらが崩れ落ちた。
母と弟は家から出られず、抱き合うようにして死んでいた。大黒柱と梁(はり)の下敷きになっていた。
前の夜。守彦は、正月を間近に控えて縫い物に精を出す母の姿を見ている。働き者で、勝ち気な母だった。守彦が友達とけんかして帰ってきた時など、相手の家に怒鳴り込んでいくような人だった。
がれきの下から出された母を見た。色白だった顔は、柱が当たったと思われる部分だけ赤かった。弟は目を閉じていた。
■ ■
記者は昨年12月、82歳になる冨永守彦さんを訪ねた。家は今も弥生町にあり、高知市の鋳造・金属加工会社の会長をしている。会社は1959年、父と立ち上げた。
鋳造工だった父は地震後、仕事一筋に生きた。その背中を見てきた冨永さんは「おやじは一生懸命やった」と話す。ただ、酒はよく飲んだ。母や弟のことを口にすることはなかったが、「酔うたらぐたぐたになって、僕らに『おらの心境が分かるか?』って、ね」。
地震の前年、冨永さん宅の納屋に高知空襲の焼夷(しょうい)弾が落ちた。火は納屋から母屋へ移った。父やいとこが懸命に消火し、母屋は一部を焼いただけで済んだ。後になり、冨永さんはそれが逆に災いしたと思うようになった。
「あれを消さんかったら。全部燃えたら、(建て替えて)バラックの家にしちょったろう。そしたら、家が軽うなって、母も弟も死なんでよかったかも」
地震後、時折、母が夢に出てきた。夢の中の母は相変わらずきれいだった。
■ ■
高知市のどの地域でどのぐらいの人が亡くなったのか。地震後、東京帝大の地震研究所が出した「研究速報」は、高知市の死者を地域別に記している。
それによると、市内の死者192人(県調べでは231人)のうち、最も犠牲が多かったのは下知地区の82人。北街69人、南街15人、潮江10人、江ノ口8人…などと続く。
高知市史は「津波による直接の死者」は「なかった」と短く記す。ただ、下知地区などでは多くの人が家の下敷きになり、そこへ濁流が来ている。倒壊に伴う圧死などと別に、家屋内での水死もあったのではないか。高知市の犠牲者の「死因」については県の南海大震災誌にも記録がなく、定かなことは分からない。
高知市には、市内外の人々や農家、占領軍などから食料などの救援物資が寄せられた。市は、被災者の避難所などへそれらを重点配分した。地震直後から停電したため、各戸にろうそくを1本ずつ配った。
決壊した堤防を応急復旧し、排水ポンプを増設し、濁水に覆われた市内の排水作業が終わったのは、年明けの1月11日だった。=一部敬称略(報道部・海路佳孝)