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2016.01.05 08:00

昭和南海地震の記憶(4)慾ヲ棄テテ逃ガレタ者

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 前回までの3回、昭和南海地震が起きた時の土佐市宇佐町の様子を再現ドキュメント風につづった。70年前の出来事を書き起こす、その最初の場所に宇佐町を選んだのには幾つかの理由があった。

 その一つは高知県内で死者670人、行方不明者9人を出しながらも、宇佐町の犠牲は死者1人、行方不明者1人の「2人」にとどまっていることだ。住民の記憶や後に残る写真資料によると、町は津波で甚大な被害を受けている。なぜ、2人だったのか、2人はどのようにして犠牲になったのか―。

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 行方不明者は「小川満夫」という名の当時6歳の少年だった。満夫さんの弟、小川正美さん(64)が今も宇佐町に暮らしていると聞き、家を訪ねた。

 正美さんは、昭和南海地震の後の1951年生まれ。つまり、亡き兄のことを直接には知らない。正美さんは「家族や近所の人から聞いた話」をひもといてくれた。

 それらによると、地震が起きた日の未明、満夫さんが浜の方へ走る姿を何人かが見ている。なぜ、山側ではない方へ行ったのか。確かなことは分からないが、地元の人たちには思い当たることが一つある。

 戦時中、高知県内も各地が空襲に遭った。宇佐では空襲警報が鳴ると、庭の壕(ごう)に入ったり、家並みから離れて逃げる人たちがいた。70年前のあの時、町は騒然としていた。終戦の翌年。6歳の子どもにとって、それは空襲警報の時と同じ情景に映ったのではないか、と。

 「空襲と間違えたがでしょうね。家族も、だいぶ捜したらしいですけんど…」(正美さん)。結局、満夫さんは見つからず、後年、墓石が造られた。

 土佐市史は、宇佐町のもう1人の犠牲者について「80才余の老人病気で重態であったがショックで死亡」と記している。

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 宇佐町は歴史上、大きな津波に繰り返し襲われている。それは古文書のほか、岡村真・高知大学特任教授による地道な地質調査などの結果からも裏付けられている。

 土佐藩士が宝永地震(1707年)の津波被害のことをまとめた「谷陵記」には、「亡所」という言葉が頻繁に出てくる。文字通り地震津波で「亡き所」になった所。宇佐町もそのうちの一カ所だ。

 「昭和南海」は、過去最大級とされる「宝永」、それより規模の小さい「安政」よりさらに小さな地震だったが、それでも「町全体が海原になった」(土佐市史)。犠牲者が2人で済んだのには、相応の理由と要因があった。

 揺れによる家屋の倒壊が少なかったことも一因という。これとは別に、過去からの「口承」や住民同士の呼び掛け合いの力が大きかった、と住民は言う。

 地元の横川進さん(92)は当時23歳。「あのおんちゃんのおかげ」で自分は助かったと断言する。おんちゃんの名は「ムラオカ」さん。「家の外におったら『おんしゃあ、ここにおったらいかん!』と言うてくれたがよ」
 「ムラオカ」さんだけではなかった。夜明け前、「津波が来るぞー!」「早う山へ!」と避難を促す声は町のあちこちで上がっていた。 

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 県道23号沿いの県漁協宇佐統括支所の入り口に「震災復興記念碑」がある。建立は1949年3月。

 碑文は長年の風雨で苔(こけ)むし、ずいぶん読みにくくなっているが、中にこんな言葉がある。

 〈往時ヨリ云イ傳(つた)フ慾(よく)ヲ棄(す)テテ逃ガレタ者命助カリシ〉〈犠牲者ノ僅少ハコノ戒ニヨル〉(報道部・海路佳孝)

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