2007.04.16 08:00

『本城直季 おもちゃな高知』ガーガー機の思い出

浦戸湾東岸付近
浦戸湾東岸付近

 海を渡る潮風も暖かさを増してきた。漂う春のにおいに誘われて浦戸湾に。
 
 水路のような海を走るのは、石灰石や蛇紋岩を載せた貨物船。たっぷり荷物を積み、関東や近畿地方に向けて、きれいな航跡を残してゆく。

        ◇

 東岸の工業地帯。「ウゥー」。昼休みの終わりを知らせる造船所のサイレンが鳴っていた。
 
 そばの船泊まりで、漁船の前に座り込み、ロープを直す漁師さんがいた。息子と2人、釣り餌用のエビを底引き網で捕っているそう。
 
 昭和12年生まれの69歳。「若いときは、室戸のマグロ船に乗りよった」と穏やかな笑顔。
 
 16歳で船に乗り、機関室で働いた。24歳で下りるまで、サイパンや金華山沖などで漁をしたという。当時、乗り込んだ船は冷凍庫もなく、燃料も多くは積めなかった。1回の航海はせいぜい70日ほど。「昔は木船やったき、台風に弱かった。中に水が入って沈む船がようけおった。友達も何人も死んだ」
 
 嵐に巻き込まれると、強風で真っ白になった波が壁のように反り立つ。「横波もろうたら終わり」という状況で、いつも船頭さんがこう励ましたそうだ。「大丈夫。死ぬときは一緒よ」
 
 海が荒れて迷い、帰港先を間違えたこともあった。「こらどこな」「どこでもえいわ。日本やろが」。船内ではそんな声が飛び交った。
 
 「今みたいに衛星とかないろ。ろっぷんき(六分儀)らあ使うて行きよったけど、目的地とだいぶずれたりすらあよ」。作業の手を止め、語る。「うれしかったね。日本の山を見たときは」

          ◇
 
 ある時、「灰が落ちて来るぞ」と、別の漁船の無線が入った。「子どものころの印象で、灰と言えば原爆やとは思うたけんど、その時は誰も大げさにせんかった」。操業を終えて帰るまでの間に、ビキニの水爆実験を知った。
 
 静岡の焼津港に入ったとき、すでに港は静かだった。離れた場所で、ぽつんとたたずむ1隻の船を見つけて「あれが福竜丸かや」と騒ぐ船員たち。古びたようなその姿に、寂しさを感じた。
 
 「ガーガー機(放射能測定器)で調べられた。捕ってきた魚を『売り物にならん。処分してくれ』って言われた」。せっかくの水揚げの大半が無駄になった。
 
 それでも漁師は海に戻れば漁をする。沖でははえ縄にかかる魚も自分たちの食事。船頭は「沖でシイラやオニカマスは食うな」と言ったという。「シイラは浅いとこを泳ぐき、放射能を浴びちゅうと思うたんやろね。その時は放射能ちなんな、やったき。酢漬けにしたらかまんやろとか」と潮焼けした顔で笑った。
 
 西に傾く太陽が、波間にまぶしい色をつけ始めた。湾のほとりで流れる穏やかな時間。人間の愚かな行為で、この時をもう乱したくはない。(飯野浩和)

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