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2024.05.01 07:00

【名作文学と音楽(22)】可愛い調べが危険をはらむ 小池真理子『ソナチネ』、マルグリット・デュラス『モデラート・カンタービレ』

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 前の回で紹介した短篇『リリー・マルレーン』の後を承け、今月も小池真理子の小説を読んでみようと思う。取り上げるのは、オール讀物の2011年10月号に発表された『ソナチネ』(文藝春秋刊の単行本や文春文庫の同名短編集に所収)。題名から想像されるように、ピアノ学習者になじみの深い曲が出てくるが、内容は大人の世界である。


 ピアニストの宮本佐江は、資産家の有沢家に雇われ、11歳になる長女菜々子の専属教師を務めている。菜々子の父・征太郎が5年前に車の事故で亡くなり、同乗していた妻の琴美と菜々子もそれぞれ脊髄損傷、左足切断の重傷を負った。琴美は夫の残した事業を「時には悪辣に」切り盛りする一方、菜々子には専任の理学療法士、トレーナー、家庭教師、画家などをつけた。佐江に声が掛かったのは、教えに行っていた音楽学校の校長で遠縁にもあたる人物が、征太郎の大学の先輩という関係から。佐江が練習を見るようになって以来、菜々子は次第に腕を上げ、性格も明るくなった。


 有沢家の別荘で開かれた盛大なパーティーと、その翌日に行われたホーム・コンサートが小説の舞台だ。征太郎ゆかりの関係者を招待したパーティーの日、佐江は果物ナイフで指を切ってしまった。ちょうどそこに現れた初対面の男が、止血用にとキッチンペーパーを手渡してくれ、会話が始まる。男は征太郎の弟で、女に手の早いと評判の健次郎だった。菜々子がコンサートでディアベリのソナチネを弾くことも話に出た。「ソナチネ、っていうと、確か、初心者向けの練習曲じゃなかったですか」「そうですね。でも、無機質なものじゃなくて、きれいな可愛い曲ばかりなんです。特にディアベリのソナチネは、菜々子ちゃんにぴったりで、私が推薦して、今回、ソナチネだけを演奏することに決めていただきました」。


 アントン・ディアベリ(1781~1858)はオーストリアの作曲家で音楽出版業者。ピアノの初中級向け教材『ソナチネ・アルバム』に作品が入っているほか、彼のワルツを主題にしたベートーヴェン作曲『ディアベリ変奏曲』でも名を知られる。音楽史的には、シューベルトなどの作品を手がけた出版業者としての功績が大きい。


 それでは、途中を飛ばしてコンサートの晩に移ることにしよう。


 別荘の敷地内に小ぶりの音楽堂があり、ゆるい階段を3段ほど上がったステージの中央には、スタインウェイのグランドピアノが置かれている。招待客が客席につき、有沢家の人々が最前列に並んだ。演奏中の菜々子に不測の事態が起こった場合に備え、佐江はステージに向かって一番左の席を割り当てられ、その右隣に健次郎が座った。


 照明が暗くなり、ステージにスポットライトが当たると、元NHKアナウンサーの女性司会者が登場した。菜々子が今夜ディアベリのソナチネOp.151の1番から3番までを演奏することに続き、菜々子の師である佐江の経歴が紹介され、そればかりか、彼女が来春には留学中に知り合ったチェリストと結婚する予定であることまで披露された。司会者から起立を求められて頭を下げ、腰を下ろそうとしたとき、薄暗がりの中で健次郎と目があった。健次郎の意味ありげな眼差しに込められているものを、佐江も受け止めた。


 菜々子の演奏が始まった。佐江は音楽よりも、隣の健次郎に気を取られた。それを抑えようとしてソナチネに意識を向ける努力をしたが、健次郎の指先が彼女の太腿に触れてくると<間違いなく悦楽に通じるだろうと思われる、密かな快感>を覚えた。その続きはここで述べないが、次の文章が佐江の揺れ動く感情を表しているだろう。「菜々子はソナチネを弾き続けている。家庭の平和の象徴のような曲。約束された未来を象徴するような曲。だが、そうしたものが本当にこの世に存在するのだろうか。存在するとして、それは永続するものなのだろうか」。


 結婚を控えた佐江が危険な男に惹かれていく瞬間の背景に、いかにも心を揺さぶりそうなロマンチックな曲ではなく、古典派の、それも子供が弾くのにふさわしいような曲を持ってきたところが、この小説の奥行きになっていると思う。


 ディアベリのソナチネは、マルグリット・デュラス(1914~1996)の代表作『モデラート・カンタービレ』(1958年)にも出てくる。音楽はひとまず脇に置き、物語の骨組みを先に述べよう。


 女主人公のアンヌ・デバレードはブルジョア階級の夫人である。息子をピアノのレッスンに連れて行った日、教師宅に近いカフェで殺人事件が起きた。男が愛人をピストルで撃ったのだった。アンヌは翌日、引き寄せられるようにそのカフェに行き、ショーヴァンという男性客と知り合う。殺人事件が口をきく糸口になった。その日から連日、アンヌは店に通い、ワインを飲みながら彼と話をする。ショーヴァンはアンヌの夫が経営する会社で働いていたことがあり、以前から彼女のことを気に留めていた。


 2人は殺人の背景について想像をめぐらす。ショーヴァンが「ぼくは、あの男が女の心臓を狙ったのは、女に頼まれてしたことだろうと思います」と仮説を述べると、アンヌは呻き声をあげ、<エロティックな感じを与える甘い嘆声>を発した。(引用は河出文庫の田中倫郎訳より)。彼女はしだいに死の観念にとらわれていく。小説の終わり近くで2人は口づけを交わすが、それは作者によって<死の儀式>に例えられる。ショーヴァンが「あなたは死んだほうがよかったんだ」と言い、アンヌが「もう死んでるわ」と答えて幕が引かれる。


 事件をめぐるアンヌとショーヴァンの会話が中心の小説である。作品名のモデラート・カンタービレという音楽用語は、そこにどう関係しているのか。冒頭のレッスン場面から見ていこう。


 生徒の少年(名前は出てこない)に向かって、ジロー先生が「楽譜の上になんて書いてあるの、読んでごらんなさい」と要求する。少年は「モデラート・カンタービレ」と答えるが、その意味を問われると「知らない」と突っぱねる。「この前も、その前の時も教えたでしょ、百ぺんくらい教えたはずよ、ほんとうに覚えていないの?」と問い詰められても、無言を通す。付き添っているアンヌは「困った子供だわ」と言いながらうれしそうだ。親にも子にもあきれ果てた先生が、ついに根負けして「これで百ぺんめよ、普通の速さで歌うように、って意味よ」と説明した。少年はひどく投げやりに「普通の速さで歌うように」と口にはしたが、もう一度弾くよう促されても従わなかった。


 曲名は示されず、「モデラート・カンタービレ」という言葉だけが何度も繰り返される。普通の速さで歌うように――単純なようだが、決して易しくはない。恐い先生(怒りとともに鉛筆で鍵盤を叩き、しまいには鉛筆を折ってしまった)にプレッシャーをかけ続けられたら、そういう気持ちで弾くのがなおさら難しくなるだろう。<モデラート>の一般的な意味は「節制のある、穏健な」である。この言葉が反復されることにより、先生の極端な厳しさ、少年の意固地、母親の偏愛がより際立って見える。


「弾きなさいって言ってるのよ」という先生の声を無視した少年は「ぼく、ピアノを習いたくないんだ」と反抗する。その時、家の下の方の通りで女の叫び声が響き、呻き声が長く続いてパタリとやんだ。幾人かの叫び声も散発的に聞こえてきた。何かが起きていることに3人とも気付いたが、レッスンは続けられた。


「少年はもう一度ディアベリのソナティネを弾き始めた」という文が出て、初めて作曲者の名前と曲の形式が分かる。どのソナチネなのか明示されないが、先生の注意「シの音はフラットよ。よく忘れるわね」で、調性がヘ長調かニ短調だろうと推測できる。ピーター・ブルック監督による1960年の映画化(ジャンヌ・モローがアンヌ、ジャン=ポール・ベルモンドがショーヴァンを演じた)では、Op168-1の第1楽章<モデラート・カンタービレ>(ヘ長調である)が使われていた。デュラスの頭の中にあったのもこの曲だろう。


 レッスンが終わり先生の家を出たあと、アンヌは息子を待たせてカフェの前に行き、野次馬に混じって事件直後の現場をのぞき込んだ。前にも述べたように、翌日カフェを再訪すると、そこにショーヴァンがいた。彼らが出会うきっかけを作ったところで、ピアノ・レッスンの場面は役割を果たし終えたようなものだが、1週間後のレッスンもかなり詳しく描かれる。なぜだろうか。


 少年は相変わらず、あれこれお叱りを受けている。この曲は何拍子の曲かと聞かれると、「普通の速さで歌うように」と答えて先生を怒らせる。「音階よ。十分間音階を弾くのよ。罰として。まず最初ハ長調から」。少年は2、3回音階を弾くが、もっと続けるように言われると手を止めて「どうして」と尋ねる。先生が「これじゃあ、手がつけられないわ」と怒りを吐き出すと、アンヌは「子供ってものは別に生まれたくって生まれてきたわけではないんですよ」と笑って言い、「それがこんどは余分にピアノなんか習えって言われるでしょ、途方にくれるわけですよ」と付け足した。


 さっきの問いに戻れば、デュラスは母と子、先生の3人の間の対話―あるいは対話の不在―が醸し出す不穏な空気を存分に書きたかったから、レッスンの場面をもう一度設けたのではないだろうか。その不穏な空気は、アンヌが家庭で感じている窮屈さ、ショーヴァンとの会話を通じて先鋭化していく<愛ゆえの死>の観念とも通ずるはずだ。


 ソナチネの響きはレッスン室の外にも広がっていく。カフェでアンヌを待つショーヴァンは店内まで流れてくる少年の演奏に合わせてメロディーを口ずさみ、母と別れて港で遊ぶ少年は綱具の上を飛び回りながら唄う。ドラマの展開するいくつかの場所が、一つの曲で結ばれている。


 映画では、少年の弾く<モデラート・カンタービレ>のほかに、ディアベリの別のソナチネ(Op168-4の第2楽章アンダンティーノ)が主題曲として使われた。前者は可愛らしく明るい旋律だが、こちらはしっとりした曲調で、翳りのある抒情的な雰囲気を持っている。<アンダンティーノ>に関してもう一つ言えば、クロアチアのシンガーソングライター、アルセン・デディッチにこの曲をベースにした作品(題名は『モデラート・カンタービレ』)があり、彼の息子でジャズピアニストのマティヤ・デディッチも即興演奏の素材にしている。


 デュラスは戯曲・映画の台本として書いた『インディア・ソング』の中に、ベートーヴェンの『ディアベリ変奏曲』を何度も登場させている。ディアベリに対する思いは結構深かったのかもしれない。(松本泰樹・共同通信社記者)



 まつもと・やすき 1955年信州生まれ。洋画・洋楽・外国文学の原題と邦題を比べて楽しむのが好きだ。映画『モデラート・カンタービレ』は日本で『雨のしのび逢い』になった。冬の陰気な空模様こそ映し出されるが、私の見た限りでは、はっきり雨と分かるシーンはなかったように思う。小説では夏に近い季節に設定され、晴天が続く。

(c)KYODONEWS

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