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2023.12.13 07:00

【名作文学と音楽(17)】オペラハウスの人間模様 

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 フランソワーズ・サガンがオペラにも関心が深かったことは、前回の末尾に少し触れておいた。短編小説『絹の瞳』(1975年刊行の同名作品集所収)に出てくるのは、プッチーニの『トスカ』である。このオペラは美貌の歌姫トスカ、彼女の恋人で画家のカヴァラドッシ、トスカに邪恋を抱く警視総監スカルピアを軸に展開する。邪魔者にされたカヴァラドッシは銃殺刑に処され、スカルピアを刺し殺したトスカは自ら命を絶った。


 小説の方の登場人物は、狩猟好きのジェロームと妻のモニカ、夫妻の友人で女たらしのスタニスラスにほぼ絞られる。スタニスラスは当然女連れで、ベティーというのが彼女の名前だが、さほど重要な役は振られていない。


 その4人がパリからドイツまで羚羊(カモシカ)を撃ちに行く。飛行機の中でスタニスラスはモニカに小声でささやいた。「ぼくはきみが欲しいんだ、ねえ、なんとかうまくチャンスをつくってくれない?」(朝吹登水子訳・新潮文庫、以下同)


 ミュンヘンから狩猟小屋までは、ジェロームが車を運転した。モニカの勧めで車に酔いやすいベティーが助手席に座り、後部座席にモニカとスタニスラスが並んだ。ベティーは眠り、ジェロームが後ろの二人に「少し音楽でもかけようか?」と話しかけた。「彼がラジオをつけると、とたんにカバルの途方もない声が車じゅうに満ちあふれた。彼女は『トスカ』の大アリアを歌っていて…」。


 大アリアは『歌に生き、恋に生き』だったか。では歌手のカバルとは誰だろう。音楽人名辞典のたぐいには見当たらない。しかし原語の綴りCaballeを眺めているうちに思い当たることがあった。語尾のeの上にアクセント記号があれば、バルセロナ出身の名歌手モンセラ(モンセラート)・カバリエのことではないか。おそらくサガンは、カバリエを匂わせながら、わざとアクセント記号を抜き、架空の人物としておいた――当たっているかどうか分からないが、私がそう推察したのには、次の場面が影響している。


 ジェロームは<カバル>の歌に心を揺さぶられた。妻への愛が胸に溢れてきて、バックミラーを傾けて彼女の方を見やった。すると、彼が目にしたのは「スタニスラスの細くて長い手が掌をぴったりと合わせてモニカの手に押し当てられている光景」だった。「音楽はとつぜん不可解で支離滅裂な音の連続、たけり立つ気違い女が叫ぶおぞましい音の連続となった」。この穏当でない表現をカバリエに向けるのをはばかり、カバルと呼び変えたと考えたのだがどうだろう。


 さてそして、この瞬間、ジェロームはスタニスラスを殺すことを決意する。車の運転はジグザグになり、異変に気付いたスタニスラスは「どうしたんだ…夢でも見てるのか」とジェロームに言う。「いや、『トスカ』を聞いていたんだ」「いま、どの場面?」「スカルピアが嫉妬からマリオ(引用者注 カヴァラドッシのこと)を殺す決心をしたところだ」「奴は正しい…やるべきことはそれだけさ」というやりとりがあって、やがて車は小屋に着く。


 猟に出た日のことは簡略に済ますが、ジェロームはスタニスラスを撃ち損じ、追い詰めた羚羊を仕留めるのもやめた。疲れ果てて宿に帰ったジェロームにスタニスラスが言う。「いったい羚羊はどうしたんだ? 君は獲物を肩にかついで持ち帰ることさえできなかったのか、鉄の男の君がね」。ジェロームは答えた「そうじゃない。ぼくは彼(あれ)を射つ気になれなかったんだ」。モニカはジェロームを見つめてこう言った。「でも、たとえあなたが殺していたとしても…」。3人はそれぞれ何を言おうとしたのか。小説はここで複雑な味を残して終わる。


 サガンがカーラジオから流れてくるオペラ放送をうまく使ったのに対し、フローベール(1821~1880)の『ボヴァリー夫人』(1856年雑誌連載、翌年単行本刊行)では、歌劇場の場面がクローズアップされる。最初に、そこへ至るまでを頭に入れよう。


 平凡な田舎医者シャルル・ボヴァリーの妻エンマは、口のうまい男ロドルフに誘惑されて情熱の日々を過ごし、駆け落ちの約束までする。しかし、ロドルフが直前に逃亡し、エンマはショックのあまり43日間寝込む。事情を知らなかったシャルルは、ようやく立ち直った妻を、気晴らしのためルーアンの歌劇場に連れて行く――。先回りして言うと、エンマはロドルフと会う前に心を通わせたレオンと劇場で偶然再会し、さらに不倫の深みにはまっていくのだが、ここではその話ではなく、当時の歌劇場のもようを見ておきたい。


フローベールはまず、劇場の外から描写を始める。「群衆は手すりの間に行儀よくはさまれて、壁ぎわにたたずんで待っていた。近い街々の角には大きなポスターが貼られ、そのどれにも<『リュシー・ド・ランメルモール』……ラガルディー……オペラ>などと風変わりな字体で書かれていた」(伊吹武彦訳・岩波文庫、以下同)。


 演目はドニゼッティ作曲『ランメルモールのルチア』のフランス版。<群衆>は安い席を求める人々。ラガルディーは主役のテノール歌手だが、名前が残っている人ではないようだ。「妾を三人、料理人を一人連れて巡業している」とか「床屋くさい、また闘牛士くさい彼の驚くべき香具師気質」といった描き方からみて、実在しない人物かなと思う。


 次に開場後の客席の様子が出てくる。オペラハウスは土地の社交場なので、『ボヴァリー夫人』の副題<地方風俗>を描き出すのにもってこいの場所だ。夫人は場内のすべてを、二階の一等席から観察している。


 仕事の苦労を癒しに来た常連たちも、顔を合わせれば商売の話になる。話題になっている木綿、トロワ=シス(ブランデーの一種)、藍は土地の産業に関係するのだろう。髪の色も顔の色も白っぽく、船の蒸気でいぶした銀メダルに似た老人たち(ルーアンはセーヌ川沿いの港町)もいれば、チョッキの胸元に桃色や薄緑色のネクタイをひらめかしながら平土間をねり歩いている若者もいる。「彼らが黄色い手袋をぴったりはめた手で、金の握りのついた細身のステッキをついている姿を、ボヴァリー夫人はほれぼれと見おろした」。地方都市ながら、うわついた空気にも欠けていないようだ。


「とかくするうち、オーケストラ席のろうそくがともった」。原語のorchestreは、交響楽団のほかに、客席の区分の一つを指したり、楽団の入る舞台下の空間(オーケストラ・ピット)を意味したりする。「オーケストラ席」と<席>が付いているから客席のように考えたくなるが、開演後に灯りが必要なのは楽員だから、意味するところはピットの方だろう。新潮文庫・生島遼一訳、旺文社文庫・白井浩司訳は<オーケストラ・ボックス>の語を充てている。それにしても、あの狭い空間にろうそくを幾つも置いたら、楽譜に火が移ることも多かったのではないか。


 ろうそくがともされるのと同じころ、シャンデリアが天井から下がってくる。客席を明るくするためだとすれば、幕の上がる前に客席を暗くする現代の劇場とは逆の照明プランだ。ちなみに、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場では、開演前にシャンデリアが天井に引き上げられていく光景がひとつの見ものになっている。


 楽員が席に着き、チューニングを済ますといよいよオペラが始まる。「舞台に拍子木の音が三つ聞こえると、チンパニが轟きはじめ、ラッパはいっせいに鳴り渡り、幕があいてそこに一つの景色が現れた」。


 <拍子木の音>がスコアの一部であれば、ピットの方から聞こえるはずだ。しかし、音は舞台で鳴らされている。それはこういうことではないか。幕が下りている時、ピットからは舞台が見えないから、楽団に音出しのタイミングを知らせる合図が必要になる。今は指揮者の手元にランプがあり、裏方が電気式のキューを送るらしいが、昔は音でやったのだろう。原文はただ<三つの音>とあるだけで、状況がよく分からないけれど、拍子木の音という見立ては妥当に思われる。


 エンマは最初、熱心に舞台を見つめていた。政略結婚のため恋人と引き離される女主人公に自己を投影し、また、情熱的なラガルディーに引きつけられ、彼と華やかな生活を共にすることを妄想した。しかし休憩時間にレオンと再会すると、あとはどうでもよくなった。われわれも、以下の成り行きは追わずにおこう。


 横光利一(1898~1947)の長篇小説『旅愁』にも歌劇場が出てくる。未完に終わったこの作品は、1930年代後半にパリ滞在を経験した日本人たちを描き、その中心に、行きの船中で知り合い、互いに惹かれ合う矢代と千鶴子がいる。千鶴子がサロンに出るための洋服を3着作ったと聞いた矢代が「一度僕にもたまには着て見せてくれないかなア」と言い、千鶴子が「ほんとに見ていただきたいわ。そのうち、一度オペラへ行きましょうよ。ね」と答えたのが歌劇場行きへの第一歩。服を見たいと言われてすぐ、オペラに行こうと提案する千鶴子はなかなか頭の回転が速い。


 ほどなくそれが実現した。フランス人の書記官ピエールに誘われた千鶴子が、矢代にも声を掛けたのである。ヴェルディの『ラ・トラヴィアータ』(原作はデュマ・フィスの『椿姫』)がオペラ座で上演されていた。ピエールが千鶴子をエスコートするので、矢代はやはり船中で一緒だった真紀子と同行した。


 矢代はタキシード、白い手袋、エナメルの靴に身を包み、真紀子に「どうです、このアルマン」と恥ずかしげに聞いた。アルマンは原作小説の登場人物で、社交界の華マルグリットにあこがれる若い男。恋が実ってしばし幸福な時を過ごしたものの、父親の介入で別れを余儀なくされた。身を引いたマルグリットは病を得て亡くなる。オペラではアルマンがアルフレード、マルグリットがヴィオレッタという名になるが、矢代はこの夜、何かというと自分や周囲の人物をアルマンとマルグリットに絡めて考える。ピエールと千鶴子が同じ桟敷にいることを「ピエールがアルマンを気取ったら」と危ぶみ、真紀子が親密にする男の名を出せば「真紀子もマルグリットの一人だったかもしれぬ」と思った。矢代が小説の人物名で思考するのは、そもそもオペラに興味があまりなく、本で読んだ悲恋物語にのみ支配されているからだ。


 横光は、幕間の時間をとらえて劇場の内部や来場者の様子を描写する。「遊歩廊から下のホールへかけてだんだん集って来たタキシイドやソアレの組が、傘燈の下で囁きかわしながらゆるく旋回をつづけていた」。「水色のソアレに銀色の沓(くつ)で千鶴子はピエールに腕をよせ、巻き辷(すべ)るような欄干の軽快な唐草の中を静かに笑みを泛べながら降りていった」「終幕前の休みにはもうホールの観客は全く興奮していた。遊歩廊を歩く男女の組は身体をぴったりとよせ合い、も早や通る他人の顔どころでなく、それぞれの愛情を誓い合うかのような切なげな眼差しで廻っていた」。


 フローベールが歌劇場に集まるさまざまな人間を冷静にスケッチしたのとは対照的に、横光は男女の熱い仲を注視する。桟敷についても「紅色の天鵞絨(ビロード)で張り廻された密房の感じ」がするとか、係に頼めば鍵を掛けられ、窓のカーテンも閉められるとかいった、情痴の世界を連想させるような事柄ばかりが語られる。『旅愁』における歌劇場は、もっぱら矢代の悶々とした気持ちを増幅させる装置の役回りだ。


 少しだけその先に触れておこう。帰国した矢代と千鶴子との仲は、ゆっくり進展していって婚約に至る。しかし、矢代のアルマンが幸福な生活を送れたかどうかは、横光が小説を書き終える前に亡くなったので、想像のしようがない。戦況の悪化という小説の時代背景を考えれば、おそらく単純なハッピーエンドにはならなかっただろうとは思うが。


『ボヴァリー夫人』と『旅愁』は、歌劇場に全く違った視線を送りながらも、この空間に男女関係の交差点のごとき役割を持たせたところは共通する。『絹の眼』も、ラジオ放送されたオペラが愛憎ドラマの発火点だ。オペラが人生に及ぼす影響は恐ろしい。(松本泰樹・共同通信記者)



 まつもと・やすき 1955年信州生まれ。1990年代の中頃、ニューヨークのイースト・ヴィレッジで小さな歌劇団<アマト・オペラ>(2009年に解散)の公演を見たのが忘れられない。100席ぐらいの狭い劇場で、目の前で見る歌手たちはみな素晴らしかった。

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