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2023.10.12 05:00

“釜石最後の芸者”舞台化「艶子姐さん」 名取裕子さん主演で10月29日 花街の枠超え継承 

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 旧釜石一中の避難所で、木村めぐみさん(左)にお座敷唄を伝える伊藤艶子さん=2011年6月、岩手県釜石市(撮影・筆者)

 岩手県のある釜石芸者の生涯が今月、初めて舞台化される。各地の花柳界が後継者不足を危惧する中、花街の枠を超え、東京・八王子芸者へと継承された「芸」がある。取材を続けるフリーライター浅原須美さんにつづってもらった。


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 “釜石最後の芸者”として知られた伊藤艶子さん(2016年、89歳で死去)の波乱の人生をテーマにした語りと踊りの舞台「艶子姐さん」が、俳優名取裕子さん主演で10月29日、岩手県釜石市の市民ホールで上演される。


 東日本大震災の津波で自宅をのまれ、三味線や着物など一切を流され、着の身着のままで旧釜石一中体育館の避難所に身を寄せた艶子さん。避難所には国内外の多くのマスコミが取材に訪れ、艶子さんの存在を報道した。


 窮状を知った東京・八王子芸妓組合の元組合長で芸者の木村めぐみさん(61)は、同じ芸者として艶子さんの悲しみが痛いほどよく分かったのだという。居ても立ってもいられなくなり、2011年5月初めに三味線を届けに避難所を訪れた。「迷惑ではないでしょうか」と釜石市役所に確認した上での行動だった。


 艶子さんは、東京から見ず知らずの芸者さんが三味線を届けに来てくれたことに感激し「神は私を見捨てなかった」と思ったという。艶子さんは釜石でただ一人残った芸者だ。芸を受け継ぐ後輩芸者がおらず、自分がいなくなったら芸も一緒に消えてしまうことを憂いていた。


 初対面で意気投合した2人は、釜石のお座敷唄を八王子の芸者衆が教わる約束を交わす。芸者の芸は本来、同じ花街の中で引き継がれる。東北に根付いたお座敷芸が、東京の芸者にじかに手渡されるのは異例だ。


 筆者は、全国の花柳界を対象に取材を続けていた関係で、めぐみさんと5年来の知己であった。その話に興味を持ち、同年6月、復旧したばかりの東北新幹線で避難所に稽古に向かうめぐみさんに同行した。八王子から釜石まで片道6時間以上かかる。日帰りのため避難所にいられるのはわずか1時間半足らずだ。


 再会のあいさつもそこそこに、狭いマットレスの上で艶子さんが三味線を弾き、うたい、踊る―。その一画は現実とかけ離れた異空間となり、艶子さんは被災者から一人の芸者に戻っていた。


 めぐみさんは翌7月、八王子の後輩芸者5人と一緒に避難所を再訪問した。避難所は閑散とし、1カ月前より稽古場として使えるスペースが広くなっていた。震災のショックで足を痛め、歩くのもままならなかったはずの艶子さんが、稽古の最中はきびきびと動き、まるで痛みを忘れたかのようだった。


 2人の交流は、それぞれの地元の仲間や応援団をも交え、釜石と八王子を行き来しながら、16年に艶子さんが亡くなるまで続き、釜石の情景と繁栄を表現した「釜石浜唄」「釜石小唄」は、八王子の芸者衆に伝授されていった。


 めぐみさんは「艶子おねえさんが惜しげもなく教えてくださった芸を、後世に残るよう、つなげたい」と浜唄と小唄を正確に譜面に起こした。


 筆者はこの出来事は単なる個人的な美談ではないと捉えている。今や後継者不足で消滅の危機にひんしている花柳界は全国に少なくない。高齢の芸者が体で覚えている芸を、異なる花街の芸者が受け継ぐという、芸の継承方法の一つとして注目すべきだと思う。


 今回の舞台では、1933年の昭和三陸津波を含めた四度の津波と、太平洋戦争末期の艦砲射撃を乗り越え、力強く生き抜いた艶子さんの一生が表現される。東日本大震災後の一連の出来事も描かれ、めぐみさんら八王子芸者衆も出演する。


 総合プロデューサーの小田島弘枝さんは「艶子さんの人生を描くことが、自然災害の恐ろしさや戦争の愚かさに目を向けるきっかけになったと思う」と語る。


 主役の名取さんは、艶子さんが困難にぶつかっても希望を捨てず、できることを続けたパワーに最も引かれるという。「艶子さんを支えた『芸』という形のないものの力や強さをぜひ伝えたい」と話す。艶子さんのスピリットが表現される舞台が多くの人々の目に触れることを願う。


 2011年9月、筆者が仮設住宅を訪ねた際に、艶子さんが発した言葉がよみがえる。「身についた芸は流されなかった。負けてたまるか、私は強いのよ」

(c)KYODONEWS

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