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2023.08.30 07:00

【3分間の聴・読・観!(13)】「特別な存在になれるかも」 書くことの意味を探りたい

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 酒井順子「日本エッセイ小史」を読んで、もやもやが晴れた。柔らかな言葉に乗せて読者をドキッとさせ、共感を抱かせるエッセイストの手際は、本書でも鮮やかだ。


 小説や詩歌、ノンフィクションと比べると、エッセイは参加自由のジャンルだけに、定義や輪郭がつかみにくく、私も本書を読むまではもやもやを抱えていた。


 酒井らしい一文が出てくる。「誰にでも書くことができるエッセイは、語弊を恐れずに言うならば、文芸世界における雑草のような存在です」。小説、詩歌は手をかけて育てる必要があるが、エッセイの分野では「水や肥料をやらなくても勝手に繁茂していきます」というのだ。「枕草子」の時代から、人間は文章で自分自身の思考や感情を描き、その集積が時代を映す鏡になっている。得心がいった。


 エッセイの歴史や分類を手際良く進めつつ、酒井が注目するのは、大正末期と昭和末期。難解より分かりやすさ、重さより軽さが求められた点や、それぞれの時代の言文一致スタイルが確立した点が共通し、随筆、エッセイが広く受け入れられた時代だったと指摘する。確かに、椎名誠、嵐山光三郎、林真理子らが登場した時は私も一読者として面白く読んだ。


 「誰もが『自分のことを書いてみようか』と思う時代は、誰もが『自分はもしかすると、特別な人間なのかもしれない』と思うことができた時代でもありました」という分析も人間の心を言い当てていると思う。誰もがSNSで自分なりの文章を振りまく昨今、言文一致の勢いは現代風で強い。本書は、エッセイの軽重が日本の先行きの指標になると結ばれる。


 自分は特別な人間かも―。高揚する時間は短く、たいていは誤解と認めざるを得ないのだが、人間はいつでもそういう気分とともに生き、何かを書いているようだ。


 米国の作家アニー・ディラードの「本を書く」は、書く人間への叱咤としてとても刺激があった。89年に原書が出版され96年に刊行された日本語版の復刊である。


 「一冊の本を仕上げるということは面白く、人を夢中にさせる。それは知性を全部投入させるに足りる、難解で複雑な仕事である。それは人生のもっとも自由なときである」。著者が言いたいのはこれだけではない。むしろここからが厳しい。


 「作家としての自由は、好き勝手なことをしゃべるという意味での表現の自由を意味しない」。そしてたたみかける。いわく「手を抜くな。すべてを厳密に容赦なく調べ上げるのだ」「わかったようなふりをしてはいけない」「すべてを出し切るのだ。いますぐに」―。ディラードはジャコメッティら芸術の先達の足跡から、自身のエピソード、比喩も駆使し、書く行為に託して人がよりよく生きる道を指し示している。


 特別な存在になれるかどうか分からなくても、書かずにいられないのなら、全力を注ぎ込むしかないだろう。


 書くことと人の心に思いを巡らせていた時に聴いた東京ダブルリード本舗のCD「Live!」は耳にしっくりきた。リードを2枚使うオーボエ、バスーン、イングリッシュホルンといった木管楽器のみの9人編成で、「風之舞」「アルメニアン・ダンス パート☆(ローマ数字1)」などの吹奏楽曲を演奏している。


 金管やパーカッションなどを含むブラスバンドとは異なる響きで、曲の新しい魅力が感じられた。ダブルリード楽器の表現の豊かさ、奏者のこまやかさが心地いい。(杉本新・共同通信記者)



【今回の作品リスト】


▽酒井順子「日本エッセイ小史」


▽アニー・ディラード「本を書く」(柳沢由実子訳)


▽東京ダブルリード本舗「Live!」



 すぎもと・あらた 文化部を経て、現在は編集委員室所属。

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