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2023.08.02 08:39

失意の万太郎、ロシアへ 師と仰いだマキシモヴィッチ 【連載記事復刻】ロシアに行きたい 

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(らんまん第18週の感想を記者が語る音声コンテンツです↑)

ロシアの植物学者、マキシモヴィッチ(高知県立牧野植物園提供)

ロシアの植物学者、マキシモヴィッチ(高知県立牧野植物園提供)

 朝ドラ「らんまん」の万太郎(神木隆之介)は田邊教授(要潤)から、東大植物学教室への出入り禁止を言い渡されました。きっかけとなってしまった食虫植物「ムジナモ」の論文も教授の名前を入れるなど万太郎は書き改めました。そして万太郎は教授の自宅を訪ねて許しを懇願しますが、聞き入れてはもらえませんでした。

 このエピソードも史実に沿ったものです。牧野富太郎博士は晩年の著書「牧野富太郎自叙伝」(講談社学術文庫)の中でこう書いています。

 今日本で植物学を志す者は少数である。その中の1人でも圧迫して研究を封ずるようなことは日本の植物学にとって損失である、と。

 しかし、この訴えも冷たい拒絶で退けれらたと言います。そしてこんな記述があります。

 〈私は大学の職員でもなく、学生でもないので、それ以上自説を固持するわけにはゆかなかったので、悄然(しょうぜん)と先生宅を辞した〉

 ドラマにおいても万太郎は教授宅を訪ねた後、失意のあまりに東京の街を夜通し歩くというシーンがありましたね。そしてもう日本国内で植物学の研究を続けることができないと思った万太郎は、植物学者マキシモヴィッチを頼って、彼のいるロシアに行くことを決意しました。これも史実に沿ったものです。マキシモヴィッチとはどういう人なのか。なぜ牧野博士はロシアに行こうと思ったのか。過去の連載記事を復刻しました。

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『淋しいひまもない 生誕150年 牧野富太郎を歩く』(29)ロシアに行きたい
 
 ロシアに行く。

 28歳の牧野富太郎は、日本を出る決意を固めた。

 国内で植物学者として生きる道は閉ざされた――東大の矢田部良吉教授から言い渡された植物学教室への出入り禁止は、それほどに大きな出来事だった。
 ロシアには牧野が「師」と敬愛する人がいた。

 世界的な植物学者、カール・ヨハン・マキシモヴィッチ(1827~1891年)である。

 しばしば牧野は「日本植物学の父」と形容されるが、マキシモヴィッチはその牧野の学問上の「父」と呼べるような存在であった。

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 牧野が生まれた年の1862年、ロシア人・マキシモヴィッチは日本に滞在していた。目的は、未知の国である日本の植物を調査することにあった。

 モスクワ郊外のツーラで生まれたマキシモヴィッチは、父の跡を継いで医師になるため大学に進んだが、「ロシア植物誌」の著者であった教授に出会い、植物分類学の道に転じた。サンクトペテルブルクの帝室植物園に勤めて、ここを生涯の研究拠点とする。

 ロシア学術探検隊の一員として世界を巡った後、アムール川沿いの植物を調査して植物誌を著して盛名を馳(は)せた。やがて満州の植物調査をこなせば、その先にある日本に関心が向くのは当然のことだった。

 1860年、32歳のマキシモヴィッチは函館に入港した。外国人が港から遠く離れることは当時禁じられていたため、岩手県の農民であった須川長之助を手足のように使って、植物採集に当たらせた。函館、江戸、横浜、長崎の各港を拠点として3年5カ月にも及ぶ調査を行った。その調査中に牧野富太郎が産声を上げているのだった。

 マキシモヴィッチは回想している。

 〈私は函館で頭の良い日本人助手、長之助に恵まれ、彼に植物の採集方法について教授した。長之助の勘の良さと誠実さのおかげで、私は遠方での調査に成功することができた。というのは長之助は当時外国人が立ち入り禁止であった内陸部から新種や珍しい植物、種子を多く採集してきたのである〉「県立牧野植物園企画展図録『牧野富太郎とマキシモヴィッチ』」

 互いの信頼関係と人柄が伝わってくる文章だ。
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 牧野が73歳になり、初めて北アルプスの立山連峰に登った時のエピソードだ。

 頂上近くに白い花の群生があった。それはマキシモヴィッチの命を受けて、長之助がこの立山で採集した植物だった。牧野は29歳の時、その高山植物の標本を手にする機会があり、長之助への敬意を込めて「チョウノスケソウ」と和名を付けていた。

 〈頂上近くの一の越しで、この旅に富太郎を招いた進野久五郎が足を止め、「先生が日本名を付けられたチョウノスケソウは、ここにまだ健在です。」と一群の白い花を指差した。富太郎はそれを聞くと、歓喜して走り寄り、斜面のガレ場に腹這(ば)いになって、一株を抱えるように「名付け親が来たぞェ」と愛(いと)おしそうに頬ずりした。(中略)今、立山で生きたチョウノスケソウと初めて対面した富太郎の感激はひとしおであった。眼前に揺れる、直径2センチほどの少し黄味を帯びた小さな花は、富太郎にとって若き日の自分と、自分に大きな影響を与えたマキシモヴィッチとの交流を偲(しの)ぶ記念の花であった〉(同)
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 もう国内に居場所はない。牧野がロシアにいるマキシモヴィッチを頼ったのは当然の成り行きであった。(2013年1月24日付、社会部・竹内一)

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