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2023.03.22 07:00

【逍遥の記(8)】捉え直しや異化で見えてくるケア労働と母なる存在  水戸芸術館現代美術ギャラリー

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 「ケアリング/マザーフッド:『母』から『他者』のケアを考える現代美術」の展示風景。石内都「mother’s」

 介護や看護、保育や育児といったケア労働に従事している人はなぜ圧倒的に女性が多いのだろう。そして、どうしてこんなにも賃金が安いのだろう。そんなことを考えていたせいか、水戸芸術館現代美術ギャラリーで開催中の展覧会のタイトルを見たときに、ぐぐーっと引き寄せられてしまい、東京から常磐線特急「ときわ」に乗り込んだ。


 「ケアリング/マザーフッド:『母』から『他者』のケアを考える現代美術」展(5月7日まで)。15組による作品を巡りながら、全ての人が日々の中で受け取ったり与えたりするケアについて、そして誰もが無関係ではあり得ない母なるものについて考えた。


 ■不穏にも見える料理の動作


 最初の部屋に入った途端、マーサ・ロスラーの「キッチンの記号論」という映像作品の音が耳に飛び込んできた。見ると、エプロンをかけた女性が無表情でキッチンに立ち、ナイフやフォーク、アイスピックなどの調理器具を使っている。突き刺す、つぶす、伸ばす、まぜる、すくい出す…。やたらに大きな音をたてている。


 意表を突かれた。思えば料理とは、誰かのために食べものを作るということは、一種のケア労働なのだ。


 それにしても、料理の動作をこうして眺めていると、どれもこれも激しく、不穏だ。作品として客観視することによって料理という日常の営みが異化されていく。女たちは長い間、台所に閉じ込められてきた。この映像は、そのことへの異議申し立てなのかもしれない。


 奥の方には石内都の写真作品「mother’s」シリーズの中から10点が展示されている。石内が母を看取るなかで、一人の同性の女性として捉え直そうとした作品だ。使い古した口紅や入れ歯、下着、靴。例えば靴は、もとはきれいな水色だったと思われる色がはげ、内側はすり切れている。


 次の部屋は本間メイの「Bodies in Overlooked Pain(見過ごされた痛みにある体)」。出産の痛みをテーマにした14分間の映像作品だ。舞台はインドネシア、作家自身を含む3人が、出産時の動きをパフォーマンスとして見せていく。時折、低い女性の声で短い日本語のナレーションが入る。


 元来、女性が担ってきた助産という営みが、近代になって西洋医学に、男性医師たちに取ってかわられていった結果、出産時の「痛み」が見過ごされてきたのではなかったか。生理や避妊、中絶、出産について、主体である女性の身体の痛苦が軽視されてきたことに、静かに抗議する作品を見ながら、なぜか私は安らぎすら感じた。時空を超えて、女性は痛みでつながっている。そんなふうに思えた。


 ■母と子どもだけの時間


 第5室は広い空間の四方全面が白い壁だ。そこに縦書きで1行ずつ文章が書かれている。書き出しはどれも同じ。「わたしは思い出す」。その上に数字が書かれている。「1 わたしは思い出す、涙は意外と出なかったことを」から始まる。


 壁に書かれた展示説明を読む。「仙台の沿岸部に暮らすかおりさん(仮名)は、第一子を出産した2010年6月11日から育児日記をつけ始めました。この展示は、彼女が11年分の日記を再読し、回想した言葉を聞き取り、編集、構成したものです」


 AHA![Archives for Human Activities/人類の営みのためのアーカイブ]による「わたしは思い出す」と題する作品だ。


 文章の頭に付く数字は出産日を「1」とした経過日数であると明かされる。「1」の後に「31」「62」「93」…と続いてゆき、子どもの月誕生日ごとの思い出を重ねてゆく。


 「かおりさん」が仙台の沿岸部に暮らしていて、月誕生日が11日であるなら、9カ月後は東日本大震災の当日になる。そう思ってたどっていくと「274」に、それはあった。


 「わたしは思い出す、14時7分を」。地震の発生時刻より39分早い。なぜだろう?


 配布資料として、詳細な聞き取り記録が置かれていた。「かおりさん」は地震の前に外出し、おむつの「ムーニーマン」を買った。レシートに印字された時刻が14時7分だった。「もう少し買い物を続けていたら、どこかで津波に遭っていたと思います」と彼女は話す。


 数字の起算点が子どもの誕生日であることは象徴的だ。西暦でも元号でもなく、母と子どもだけの日々がそこから始まっている。東日本大震災でさえ、「3・11」ではなく「274」であり、「14時46分」ではなく、おむつを買った「14時7分」なのだ。


 誰にも侵されることのない空間、誰にも支配されない時間。しかし、母子の“蜜月”は子どもの成長に伴って少しずつ薄まっていく。展示はその寂しさも映し出す。 


 ■母親が徘徊したルート


 ヨアンナ・ライコフスカの「バシャ」という映像作品にも触れておきたい。どこかの施設か病院から抜け出してきたのだろうか。パジャマ姿の初老に見える女性が道路をすたすたと歩いている。どことなく不安と緊張を感じさせる表情だ。


 かなり大きな川に躊躇なく入り、腰までつかりながら渡ってしまうあたりで、認知に問題があるのかもしれないと気付く。すれ違う人たちも、彼女を怪訝そうに見る。笑っている若い男もいる。中年女性が彼女に気づき、追いついて声をかける。どうやら保護しようとしているようだが、彼女はなかなか応じない…。


 学芸員の後藤桜子によると「バシャ」は、作者ライコフスカの母親の愛称。作品はゲリラパフォーマンスの記録として制作された。ライコフスカの母親は認知症を患い、施設で亡くなった。「生前は母親と分かり合えることがなかった作家自身の経験から、母親が亡くなったときの年齢に見えるようなメークをして、髪を染め、パジャマを着て、母親が徘徊していたルートを歩いた。その様子を記録した作品です」と後藤が言う。


 気を配ってくれる中年女性はおそらく親切な人、なのだろう。しかし、バシャの視点で見たらどうか。ひっきりなしに話しかけてくるその中年女性は、自分に介入してくる煩わしい存在に思えてくる。


 最後に施設のような場所に連れ戻されたのちに、バシャはまたそこを抜け出して歩き出し、振り出しに戻る。再び歩き始めたときのバシャが、ちょっとだけうれしそうに見える。石内の作品と同様に、娘が母を捉え直す作品だが、さらにそこから、医療やケアが当事者不在になっていないか、それは誰のためのものなのかと問いかけてくる。


 本展会場の水戸芸術館は、昨年12月に死去した磯崎新が設計した。「磯崎新―水戸芸術館を創る」展(6月25日まで)が同時開催されていた。


 水戸芸術館の一角にそびえる高い塔は、ねじれながら空に向かう。なぜ、その位置に作られたのか。そのフォルムに、どのような意味を込めたのか。


 日本を代表する建築家の深い思想の一端にも触れることができる。(敬称略/田村文・共同通信記者)

(c)KYODONEWS

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