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2023.02.08 07:00

【歴史の小窓(7)】「遠野物語」を生んだ柳田国男の日本観 明治時代の先住民族論の影響

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 「とおの物語の館」にある柳田国男像。後ろは柳田が滞在した旧「高善旅館」=岩手県遠野市

 柳田国男(1875~1962年)の「遠野物語」を初めて読んだのは学生時代だったろうか。カッパやザシキワラシなどの民話は私の田舎にはなかったから、興味深く手にとった。1話1話は短くても、地名や人名が具体的なものがあり、人や動物たちの行動も目に浮かぶようで内容の豊かさに感心した。


 感心する一方で引っかかったことがある。序文にある「これを語りて平地人を戦慄せしめよ」という激しい言葉だ。柳田は、遠野物語のような話は全国の奥深い山地には無数に残っているだろうから、「それを明らかにすることで、平地に住む人を恐れおののかせよ」といっているようなのだが、いったいどういう意味なのか。山には山の生活があるから、平地では考えられない山地ならではの危険や自然現象はあるだろうが、それを語ることで平野に住む人たちが「戦慄する」ことはあるのだろうか。


 忘れていたこの言葉を、設楽博己他編著「柳田國男と考古学 なぜ柳田は考古資料を収集したのか」を読んで思い出した。同書は、遠野物語を出版(1910年)する直前に、北海道や南樺太を旅行して入手した石器や土器から、柳田の思考の背景を探っている。それによると柳田は当時「日本人とは何か」「日本人はどう形成されてきたか」という問題に関心を持ち、日本で研究が始まったばかりの人類学や考古学を手がかりにして調べるうちに、一つの考えにたどりついたようだ。


 それは日本列島にはもともと日本人とは異なる人たちが住んでいて、そこに日本人の祖先がやってきたため先住の人々は山へ逃れたり、北方へ移動したりしたという「人種交代論」だった。江戸時代末から明治時代にかけて日本にやってきた外国人学者が唱え始め、日本人研究者も追随していた学会の主流だった。


 この説は、日本の神話に大きな影響を受けていた。高天原から日本列島に天下った神様の子孫である神武天皇が、九州から東征して日本を治めるようになったという神話をなぞるように、稲作を持ってやってきた人たちが先住民(石器時代人、今で言う縄文時代の人々)を北に追い払ったとし、先住民にはアイヌあるいはアイヌの伝説に出てくる体の小さなコロボックルをあてるという二説があった。柳田が北海道や樺太(サハリン)の石器などに関心を持って収集したのはこうした学説があったからだ。


 ついでに言うと、柳田に影響を与えたものがもう一つある。旧制高校、大学時代にドイツの詩人、ハイネを愛読していた柳田は、中でも「流刑の神々」(柳田は「諸神流竄記」と記している)に衝撃を受けた。ヨーロッパ世界にキリスト教が広まった結果、それより古いギリシャやローマ時代に信仰された神々が、社会の隅に追いやられ「呪われた存在」にされているとするエッセーで、日本でも同様のことが言えるのではないかと考え、先住民の信仰が民話や伝承に残っているのではないかと注目していたようだ。


 樺太旅行から帰った2年後、柳田の家を訪ねてきたのが「遠野物語」のきっかけとなる岩手出身の青年佐々木喜善だった。佐々木が聞き覚えてきた遠野の昔話、中でも山中に住む異形の男女や天狗に例えたりした不思議な話の数々は柳田を喜ばせたに違いない。これこそ、自身の「山人論」―先住民の生き残りがまだ山中で暮らしている―の証拠だと。日本の歴史には公的な歴史だけではなく、排除された人たちのもう一つの歴史が隠されている。「平地人を戦慄せしめよ」にはこうした思いが込められていたのだろう。


 柳田にとってその後の「遠野物語」はというと、山人について言及することは多かったが、次第に少なくなる。日本人の起源について、骨などから変化を探る形質人類学が深化したことによって、縄文時代の人々とその後の日本人に大きな違いがないことが明らかになって「人種交代説」が成り立たなくなったことも一つの理由だろうか。(共同通信記者・黒沢恒雄)



 くろさわ・つねお 1953年生まれ。歴史学、特に考古学には距離を置いていたと思っていた柳田国男が、石器や土器を集めていたとは意外だった。「日本人とは何か」という大きな問いに立ち向かっていくために、現地に足を運んで資料を集めたり、新しい学問にも積極的に手を伸ばしていったりする姿勢は生涯変わることはなかったようだ。

(c)KYODONEWS

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