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2022.12.07 07:00

【歴史の小窓(5)】人々に親しまれた歌は、なぜ「万葉集」におさめられなかったのか 紙のように薄い「歌木簡」が語る古代の姿

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 漫画「ちはやふる」へのメッセージボード=京王線府中駅改札口前

 今夏、連載が完結した末次由紀さんの人気漫画「ちはやふる」への、ファンからの感謝を伝えるメッセージボードが11月下旬から、舞台となった東京都府中市の京王線府中駅改札口前の市の情報コーナーに掲示されている。「競技かるた」に青春をかける女子高生を描いた作品は人気を集め、15年にわたって雑誌に連載され、漫画をきっかけにかるたを始めた人も多いという。


 ボードには、末次さんが描いたヒロインの「千早」や、かるたの仲間のイラストを囲むように「かるたを始めるきっかけになってくれてありがとう」や「ちはやふるに出会い近江神宮、あわら、福岡でちはやふるを全身で感じました」などのメッセージが寄せられている。


 「ちはやふる」がテーマとした競技かるたは、読み上げた「小倉百人一首」の札を、2人の競技者が取り合うもので、そのスピードと迫力はスポーツにも例えられるほど。


 漫画では競技会の場面が出てきて、いつも次の1首から始まる。


 「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今を春べと 咲くやこの花」


 この「難波津の歌」は、百人一首には入っていない。毎年1月に滋賀・近江神宮で「かるた名人」「かるたクイーン」を決める大会を主催する全日本かるた協会が、1枚目の百人一首の札を読む前に、「序歌」として難波津の歌を読み上げるように定めているからだ。序歌は競技会によっては地元にちなんだ歌が選ばれることも多いが、同協会は70年ほど前に、歌人の佐々木信綱に依頼して難波津の歌に決めたのだという。


 信綱がなぜこの歌を選んだのか。理由は「小倉百人一首」の1番目の天智天皇よりも古い仁徳天皇の時代の歌とされていること、昔から習字などの手習いの手本とされていたことと合わせ、「寒い冬を耐えて、今を盛りと咲き誇る花」という歌の内容に、戦争で荒廃してしまった日本の未来の姿を託したようだ。


 信綱がいう手習いの手本というのは、平安時代の歌人、紀貫之が、難波津の歌を「安積山の歌」とともに日本の「歌の父母」のようで「手習いのはじめにならうもの」だと書いていることを指している。


 興味深いのは、「安積山の歌」は奈良時代に編まれた最古の歌集「万葉集」に入っているのに、難波津の歌が入っていないことだ。全部で4500首も集められ、誰が詠んだのかわからない歌も多いのに、なぜ採用されなかったのだろうか。


 「歌木簡」という言葉がある。大阪市大名誉教授の栄原永遠男さんが提唱したもので、遺跡から出土する文字が書かれた板(木簡)の中に、万葉仮名で和歌を1行だけ書いたものを指している。十点近く知られていて、難波宮跡(大阪市)や奈良の平城宮跡でも見つかっている。書かれた歌の半数が難波津の歌というところから、最も親しまれていたことがわかる。


 ところで、「難波津の歌」と並んで「歌の父母」とされた「安積山の歌」は「安積山 影さへ見ゆる 山の井の浅き心を わが思わなくに」というもので、実はこの2首が表裏に書かれた木簡が1点だけある。奈良時代の聖武天皇の紫香楽宮跡である滋賀県甲賀市の宮町遺跡(8世紀半ば)から出土していて、まず表に「難波津の歌」を書いて使用した後、不要になって廃棄される前に裏面に「安積山の歌」を書いたようだ。


 貫之が和歌の“ルーツ”とまでいった歌が1枚の木簡の表裏に書かれていたとは驚きだが、同時に、この木簡が書かれたのが「万葉集」が成立した時期と同じ奈良時代半ばというのも興味深く、難波津の歌がなぜ採用されなかったかという疑問がさらに強くなる。


 そこで注目されるのが、歌木簡の特徴だ。復元すると、約60センチと荷札などに使う普通の木簡の倍の長さなのに、幅は2~4センチ、厚さは2~4ミリで、一番薄いのは1ミリという薄さで、栄原さんは、この紙のように薄い歌木簡は、公的な儀式や宴会の場で朗詠するために書かれたのではないかと考えている。読み上げる人も集まった人たちもよく知っていて暗誦できるのだが、歌木簡をわざわざ持って読み上げるところに意義があったのではないかというのだ。


 現代では大きな行事では「君が代」を、学校では校歌が歌われるように、古代は、「難波津の歌」が読み上げられて儀式が始まった―。こう想像してみると、「難波津の歌」が万葉集に収録されなかったのは、儀式や宴会などで頻繁にうたわれる、いわば“国歌”がわりの歌だったため、あらためて万葉集に収めるべき歌とは考えられなかったのだろう。


 佐々木信綱が競技かるたの序歌を定めたときには、歌木簡はまだ出土していなかった。序歌の役割と似た歌木簡の使用法を聞いたら、どんな感想を抱くのだろうか。(黒沢恒雄・共同通信記者)



 くろさわ・つねお 1953年生まれ。出土したばかりの木簡は、水分を含んで柔らかく、そのままでは研究ばかりではなく、保存も公開もできない。文化財取材を始めたころ、真空凍結乾燥法という保存処理法が開発、実用化された。金属容器の中に木簡を入れ、密封した後、空気を抜き取り乾燥させる方法で、木簡を傷めず墨書も不鮮明にならない画期的な方法だが、「インスタントラーメンの製造法と同じ」と聞いて、なんとなく納得できたものだった。

(c)KYODONEWS

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