2022.11.22 08:35
母は無口な普通の女性 木浦の母、田内千鶴子さん(高知市若松町出身)―そして某年某日(23)
千鶴子さん=最後列右から3番目=が結婚したころの木浦共生園。彼女の右隣が夫の尹致浩さん
韓国南西部の木浦(モッポ)市にある「木浦共生園」で戦前戦後、約3千人の孤児を育てた高知市出身の田内千鶴子さん。1961年に雑誌「主婦の友」に書き下ろした手記は、苦難の道程をどこか明るい筆致でつづる。今年は千鶴子さんの生誕110年。3万人の市民葬に送られた生涯は、波乱とドラマに満ちる。
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千鶴子さんは7歳のとき、朝鮮総督府官吏として先に赴いた父の徳治さん(南国市大そね出身)に呼ばれ、母の春さん(高知市一宮出身)と、高知市若松町の生家から木浦市に赴く。
音楽を学んで韓国の高等女学校に進むが、17歳のときに父親は病死。助産婦をする母の稼ぎで暮らし、卒業後はミッションスクールの音楽教師となった。
運命の分かれの一つは24歳のときだ。女学校の恩師に頼まれ、キリスト教伝道師の韓国人、尹致浩(ユンチホ)さんが50人ほどの幼い孤児たちと暮らす「共生園」へ、日本語と音楽を教える奉仕に赴いた。
日本から寄付されたピアノを奏でる千鶴子さん(1961年、木浦共生園)
〈共生園と名はいいが、バラックもバラック。障子もふすまもないがらんどうの30畳ほどの部屋一つ〉
園長の尹さんは、背の低いやせた青年だった。丸刈り頭に麦わら帽をかぶり、わらじをはいていた。
孤児を洗髪する尹さん(年代不詳、木浦市)
「この女性は、きっと神様の贈りものだ」
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当時の韓国は日本の植民地で、半島の南西端に港の開けた木浦市は鉄、農産物、塩や練り物などを輸入搾取する日本の拠点となる町として重宝され、日本人だけで5千人が暮らした。
千鶴子さんは記す。〈日本政府は「内鮮一体」の運動を起こし、シナ事変のための兵力増強の必要から、韓国名を日本名に変更し、役所に届けるように強制していた。日本人の韓国人に対する強い偏見は払い去ることができず、激しい罵倒のなかで、私たちは結婚式をあげました。昭和13年10月15日、ユンが29歳、私が25歳の時でした〉
一人娘の千鶴子さんは母の元を去り、ふとん一組と行李(こうり)を持参して共生園へ。
夜は穀物を入れる袋を敷き、上にごろ寝。電気もガスもない。子供たちは服もろくになくはだしで、千鶴子さんは毎日三度、規則正しく食事をする習慣から教え始め、食前のあいさつ、顔や手を洗うことを教えた。
5~16歳までの子供たちと、貧しくとも明るい日々を送る。日本人の彼女に反感を持つ子らも、だんだんと懐いた。瓦屋根の手作り施設は、いつ倒壊するかわからない。物乞いもして食べ物を集める傍ら、夫妻は改修の資金や食費の寄付を仰いで駆け回った。
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45年8月15日、支配者だった日本人の日々は一気に暗転する。
日本の敗戦。身の危険が及ぶ中で千鶴子さんは悩む。夫妻の子は基さん、姉の清美さんがおり、おなかに次女も宿していた。母は口には出さないが、高知市に帰りたがっている。
長男の基さん。3歳のとき千鶴子さんと、ここにあった高知市の親戚宅で暮らす。「近所の川で遊んだ覚えがあるよ」。同市であった生誕記念行事に合わせて来高した(10月31日、同市旭駅前町)
しかし千鶴子さんは、韓国に残した孤児たちの呼ぶ声が耳から離れない。翌47年秋、基さんや高知市で生まれた次女の睦子さんらを連れ、母には今生の別れを告げ、再び夫の元へと渡韓する。
以来、独立によって復権した現地の朝鮮語を会話から覚え、木浦なまりで生涯話し、チマ・チョゴリを着て、夫の名字を取って「尹鶴子(ユンハクチャ)」を名乗った。
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木浦市での暮らしは、さらに苦難をたどる。
基さんによると、ある日、日本人の千鶴子を妻とし、総督府から資金援助を受けたこともあった尹さんを殺せと、刃物や棒を持つ一群が押しかけた。
尹さんは外出しており、園には千鶴子と孤児たちがいた。立ちはだかったのはその子らで、誰からともなく口々に「私たちのお母さんに手を出すな」と叫び、抵抗したという。
50年6月には朝鮮戦争が勃発、夫妻は決定的な危機にさらされる。北朝鮮軍がソウルから次第に南下、木浦まで侵入し、町はその支配を受けた。韓国政府の時に青年団長や婦人会会長などについた人は引き出され、殺害された。人々は町から逃げ、残っていた日本人も引き揚げた。しかし夫妻は、300人余に増えた孤児を抱え、必死に守るほかなかった。
町には乳飲み子の捨て子があふれた。手記は書く。〈私たちは片っぱしから、ひろっては育てました〉
翌51年1月、尹さんは光州(クァンジュ)へ食料調達に1人で出掛けたきり、ついに帰らなかった。千鶴子さんは情報があると、現地にも足を運んで夫を捜し続けたが、見つからなかった。〈必死の捜査もむだでした。北朝鮮のゲリラに殺されたとしか考えられません〉
万策尽きた思いがしたと手記は記す。
〈残された子供たちはどうなる。ユンの20年間の仕事をここで終わらせてしまってよいものか…私はがんばりました〉
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基さんによると、苦しいながらも切り盛りできた理由の一つに、朝鮮戦争時に入国した米国キリスト教団体の協力が大きい。
団体は資金援助だけでなく、携わる人々の内発的な活動を育てた。園は営農や酪農、海岸でのカキ養殖を行い、子供たちも学びながら働いた。
当時48歳の千鶴子さん=左。日本への一時帰国で母の春さん=右=と念願の再会を果たし、NHK番組「私の秘密」に親子で出演した(1961年)
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長男の基さんは、母の千鶴子さんを「実は、私は恨み続けた」と言う。
「僕は実の子供であるのに、ほかの孤児たちと全く一緒の扱いで、貧しい施設に放り込まれ、カイコ棚のような狭い部屋で、皆と寝て暮らしたのです」
両親への憎しみと思慕が交じり合う思い。一言では言い尽くせないが、晩年をみとった1年で氷解する。
「母が病に倒れ入院してから、入院先のソウル市の病院で、私は初めて、母を独占できました。そこで、さまざまな出来事や、母の思いを詳しく知ります。母は自分が共生園を頑張って守った思いを、こう言いました。『夫が帰ってきたときに、共生園がなかったらどれほど悲しむだろう。帰ってきたそのときに、夫から、頑張ってくれたねの一言が聞きたかった。私は、それだけだったのよ』」
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千鶴子さんは68年10月31日、誕生日と同じ日に56歳で他界する。11月2日の葬儀は前例のない、木浦市初の市民葬となる。
葬列が続く千鶴子さんの市民葬(1968年11月2日、木浦市)
基さんは「3万人が参列したとか、文化勲章をもらったとか、母はさまざまな賛美を受けます。でも、すぐ隣にいるような、普通の女性でした。だから愛されたのでしょう」。
基さんは母の跡を継ぎ共生園を運営。現在も園の役職をこなしながら韓国と日本を行き来し、現在暮らす日本では、堺市などで在日韓国人らが過ごす福祉ホームを運営する。
「母は口数が少なく、静かな性格で、孤児にも丁寧語を使いました。子供が死んだら、きれいに消毒してその子と一晩一緒に寝る。リンゴを口でかみ、病気の子どもの口に入れてあげた姿も忘れられない。母を尊敬し、福祉の仕事に、いまも生かし続けています」(石井研)