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2022.11.25 08:30

「信濃博物学会への献身」 シン・マキノ伝【38】=第3部= 田中純子(牧野記念庭園学芸員)

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牧野富太郎と信濃博物学会のメンバー(明治37年8月27日、長野市にて撮影、個人蔵)

牧野富太郎と信濃博物学会のメンバー(明治37年8月27日、長野市にて撮影、個人蔵)


 ここに1枚の写真がある。明治37(1904)年8月27日に撮影されたものである。10人が写るこの写真で、後列・向かって右から3番目の人物が牧野富太郎である。撮影場所は、長野市と写真裏にある。裏には、撮影年・場所とともに、10人の名前も記されるので、ここに挙げておく。牧野の他に、八木貞助、宮本邦基、宮脇音松、志村寛、田中貢一、小川正直、高橋貞吉、金城三郎、本須恭郎である。牧野は、帽子をかぶっていないが手に持ち、眼鏡と蝶ネクタイをつけている。他の人たちの持ち物に胴乱があることから、植物採集の時の写真と推察される。牧野の日記(行動録)には、同日に長野市で採集した標本の記録があり、続いて29日戸隠山、30日野尻湖とあり、この頃長野県内に滞在していたことが分かる。そして9月3日に、長野市内の矢澤方から妻・寿衛宛に郵便物を出している。

 この写真を取り上げたのは、牧野と信濃博物学会との関わり、ひいては牧野が植物採集会(講習会)の指導に当たるようになるきっかけがここにあるのではないかと考えたからである。信濃博物学会は、明治35年に設立された、信濃(長野県)の自然を研究する会で、会誌として「信濃博物学雑誌」を発行した。

 「信濃博物学雑誌」を調べると、先の写真に関連する事項が見つかった。すなわち第12号(1904年10月)の中で、9月3日に同会の第23回例会が開催され、「今回戸隠地方植物採集として来長せられたる牧野富太郎氏を聘(へい)して講演を乞う等の事ありて来会者二百名以上に達し頗(すこぶ)る盛会なりき」と書かれてあった。牧野の演目は、「飯沼慾斎(よくさい)先生の事蹟(じせき)」というものであった。これは、すでに31回目で触れたが、明治32年の慾斎の一族より聞き書きしたことを踏まえて牧野が講演の話題としたものと考えられる。参加した人数が200人以上であったということから、すでに牧野の名は知られ、その話を聞いてみたいと思う人が多かったと推察される。

 第23回の例会で牧野の他に講演を行った人物として高橋貞吉の名が、同誌に載る第22回例会の記録に話者として高橋の他に八木貞助、志村寛の名が見られた。3人とも写真に写る人物である。八木は、明治42年に「植物記載帖」という本を出版しているが、牧野が校閲者となっている。植物採集を行う人に向けて記載の方法とそのための用紙からなるものである。八木は長野県の地質鉱物の研究をなした。

 先に挙げた10名のうち、田中貢一(1881~1965年)は牧野富太郎との共著「科属検索日本植物志」(大日本図書、1928年)がある。田中は、師範学校在籍中に信濃博物学会の設立に関わり、明治37年、牧野の斡旋(あっせん)で東京帝国大学農科大学の池野成一郎の助手になった。後に帝国駒場農園に勤める。また、明治36年に出版した「信濃の花:植物美観」(荻原朝陽館)では、牧野が校閲している。同書に取り上げられた植物のうち、ヒメスミレサイシンは牧野が命名したスミレである。その経緯は以下のようである。明治33年に田中が戸隠山で採集したが花期を逸していた。同35年5月に矢澤と戸隠山で春季の植物分布を調査していた折に花のある個体を見つけ、牧野に検定を頼んだところ、牧野は種小名を矢澤の姓にした学名を同年8月に「植物学雑誌」(第16巻第186号)で発表した。田中は、信州の地で博物学界に貢献している矢澤の名を牧野に推薦したようで、矢澤の名がこのスミレの学名に永遠に残ることになったのを喜んでいる。

 牧野の日記(先述の9月3日)にも田中の著書にも登場する矢澤とは、この信濃博物学会の中心人物である矢澤米三郎(1868~1942年)のことである。矢澤は師範学校卒業後博物学の教員となり、明治35(1902)年に仲間とともに信濃博物学会を設立し会長に就任した。日本アルプスの登山家であり高山の学術的な研究にも着手し、日本のライチョウの研究で知られる。日記に書かれた29日戸隠山では、矢澤がその頂上で見つけたシダ植物について、牧野はトガクシデンダの和名とともに矢澤に献呈した学名をつけた(「植物学雑誌」第18巻第212号、1904年)。

 以上のことから、ここで紹介した写真は、戸隠で植物調査をするため長野に来た牧野が市内で採集をした時に撮影されたもので、一緒に写る人々のうち少なくとも4名は信濃博物学会のメンバーであったことが明らかとなった。この滞在中に、同会の例会に講師として牧野が招かれたことも分かった。写真の右端に写る人物は、裏書では八木とあるが、他の写真と見比べて矢澤ではないだろうか。八木の顔が分からないので断定はできないが、会の中心人物である矢澤が写っていてもよいと思う。撮影者が八木かもしれない。

 その後信濃博物学会では、明治40年7月に同会主催の「高山植物採集会」を八ヶ岳連峰にて開くことになり、牧野が指導の任に当たることになった。応募は多数を極め、北は宮城から、南は高知からの参加者があった。仙台からは宮澤文吾(1884~1968年)であり、宮澤は長野県出身で当時仙台の旧制第2高等学校に在籍し、後にハナショウブやシャクヤクの作出など園芸界で活躍した植物学者である。牧野とは終生交流があった。採集会の会期は7月27日~8月2日。牧野は、家族に事故があって遅れ、29日の夕刻に到着したという。待ち望んだ講師の到着を参加者は歓呼の声で迎えたようである。この会での牧野の活躍は素晴らしいものであった。「信濃博物学雑誌」(第27号、1907年)に収録された会の記録によれば、「此夜、牧野講師は、各会員の採集に係る標本を鑑定し、深更に及びて尚倦むことなく、会員皆氏の蒲柳(ほりゅう)の容姿を以てして、能く其体力と気力の無限的耐久性なると、斯学の為に熱心精励所謂膏油(こうゆ)を焚きて以て晷(かげ)に亜(つ)ぎ(日夜勉強に励む意味)、尚以て足れりとせざる慨あるを歎称(たんしょう)せざるは無し。」とある。すなわち、牧野が夜遅くまで各会員が採集した標本の鑑定に精を出し、牧野の体力と気力が限界を知らぬことと、植物学のために熱心で日夜研究に励んでもなお足りないとする気概に会員が感嘆したと伝えている。

 翌41年8月には長野県の白馬山で開催された「高山植物採集会」に牧野は参加した。このことは、その時に撮影された写真の、牧野による書き込みから明らかとなった(日記には、8月8日から15日が白馬岳とある)。写真には大勢の参加者が写るが、書き込みにより中央の牧野の隣が矢澤、更に隣が河野齢蔵と分かる。河野は、矢澤とともに信濃博物学会の創設から参加し、矢澤と同様に教育者であり、高山植物の研究をなし、山岳写真家の草分け的存在である。2人の名前があることからおそらく開催したのは信濃博物学会であり、前年に続いて高山植物を対象とした採集会を、本年は白馬山で行ったということであろう。

 牧野の日本における植物学への貢献は、新種の発見や学名の付与をはじめとする日本のフローラの解明であるが、それと並んで植物趣味と植物知識の普及も見落とせない大事な貢献である。具体的には各地で行われる植物採集会や講習会で講師として採集の指導に当たりかつ講話も行うことであり、牧野自身が創設した東京植物同好会(後に牧野植物同好会、現在も活動中)では会長となって活躍した。こうした動きの先駆けの一つが、信濃博物学会であったと考える。ただし、信濃博物学会のメンバーと牧野が写る明治37年の写真が、牧野を講師として行われた採集会であったかどうかは判断がつかないが、翌月の例会は、明らかに講演を頼まれたのである。

 長野とほぼ同じころ牧野が指導に当たった例として、明治39年8月に開催された滋賀県伊吹山で開かれた植物講習会が挙げられる。参加者は約300名という。そして、日記によれば、牧野は精力的にこの伊吹山から岡山に向い、師範学校で講話を行ない講習会に参加し、津山で大山に登っている。これも講習会であったようである。さらに、津山から博多に足をのばし、英彦山で講話をなしている。

 九州に関して付け加えておくと、翌42年8月に多良山と阿蘇山で第2回植物夏期講習会が開かれその後も行われた記録があることから、英彦山が第1回目の講習会であったと思われる。

 このように植物観察・採集の指導を頼まれるようになったのは、牧野の植物研究の業績が認められた結果であろう。それに加えて信濃博物学会との結びつきは、牧野自身の高山植物研究への関心によるところもあると思われる。次回は牧野と高山植物について述べたい。(田中純子・練馬区立牧野記念庭園学芸員)
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 長期連載企画「シン・マキノ伝」は、生誕160年を今年迎えた高知県佐川町出身の世界的植物学者・牧野富太郎の生涯をたどる最新の評伝です。筆者は東京の練馬区立牧野記念庭園の田中純子・学芸員です。同園は牧野が晩年を過ごした自宅と庭のある地にあり、その業績を顕彰する記念館と庭園が整備されています。田中学芸員は長らく牧野に関する史料の発掘や調査を続けている牧野富太郎研究の第一人者です。その植物全般におよぶ膨大な知識の集積、目を見張る精緻な植物図の作成、日本全国各地の山野を歩き回ったフィールド・ワーク、およそ40万枚もの植物標本の収集、そしてその破天荒ともいえる生き方……。新たに見つかった史料や新しい視点で田中学芸員が牧野富太郎の実像を浮き彫りにする最新の評伝を本紙ウェブに書き下ろします。牧野博士をモデルにしたNHK連続テレビ小説「らんまん」が始まる来年春ごろまで連載する予定です。ご期待ください。
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 たなか・じゅんこ 1964年、東京生まれ。上智大学大学院修士課程卒業(歴史学専攻)。中高等学校で教師を勤めた後、東京国立博物館で江戸から明治時代にかけての博物学的資料の整理調査に当たる。2010年、リニューアルオープンした練馬区立牧野記念庭園記念館の学芸員となり現在に至る。植物学者・牧野富太郎をはじめ植物と関わったさまざまな人たちの展示を手掛ける。

※シン・マキノ伝の第1部(1~9回目)は下記の「一覧」をクリックいただくとご覧になれます※

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