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2022.11.17 08:20

江戸期から伝わる史料―室戸文書は問う 次の南海地震に向けて(1)

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久保野家の子孫、久保野由起子さんは今も港のそばに暮らす(室戸市室津)

久保野家の子孫、久保野由起子さんは今も港のそばに暮らす(室戸市室津)

 太平洋へと鋭く突き出た室戸岬。突端の西側に掘られた室津港では、穏やかな青い波が寄せている。

 岬周辺は過去、南海トラフ地震が起きるたび、隆起を繰り返してきた。港から山手に向けて「港の上」と呼ばれる緩い坂道が続き、その両脇に観光客やお遍路が行き交う飲食店エリアがある。

 丘の上に立つ四国霊場の25番札所、津照寺で女性が迎えてくれた。久保野由起子さん(76)。江戸時代に商船で栄えた室津港で「湊番役(みなとばんやく)」を務めた久保野家の末裔(まつえい)だ。

■水深の記述
室津港の湊番役だった久保野家が残していた史料(高知市追手筋2丁目の県立高知城歴史博物館)

室津港の湊番役だった久保野家が残していた史料(高知市追手筋2丁目の県立高知城歴史博物館)

 室戸市史によると、久保野家は長宗我部氏の家臣として仕え、四国統一戦や文禄・慶長の役(1592~98年)に従軍。江戸時代の初期に土佐藩から湊番役を任され、明治初期まで200年以上、8人の当主が港の保守と荷役を記録してきた。

 海風が抜ける平屋の一室で、由起子さんが歴代当主の名が記された一枚の紙を出してきた。初代の久兵衛さんから数えて、由起子さんは11代目の子になる。

 「お尋ねの史料はここで保管していました」。年代物のたんすを指さし、そう切り出した。

 史料とは、代々当主らが和紙に書き残してきた約80点の文書。船と荷物の出入りや台風などでの修復歴、中国の難破船が漂着した事件のいきさつや、野中兼山が荒れ地開拓を許可した直筆書面などが残る。

 この史料群に、地震学者が注目したわずかな記述がある。1707年の宝永地震と1854年の安政地震によって大地が隆起し、室津港の水深がどれだけ浅くなったかが墨書きされていた。

■「四尺程ヘリ」
 水深の記述は3点の史料にある。幕末に記された手のひらサイズの「手鏡」、明治期に綴(と)じられた「室津港手鏡」、昭和の「室戸港沿革史」だ。

 それらによると、宝永地震前の水深は、満潮時「一丈四尺」(4・2メートル)、干潮時「八尺五寸」(2・5メートル)。それが、地震から52年後の宝暦9(1759)年には、満潮時「八尺七寸」(2・6メートル)、干潮時「三尺六寸」(1・0メートル)と浅くなっていた。

 また安政地震では「嘉永七寅年十一月四日 汐(しお)クルイ 同五日大地シン後 汐四尺程(ほど)ヘリ」とある。「四尺」、つまり1・2メートル浅くなったということだ。

 由起子さんは史料の内容は知らなかった。11代当主の父、幸雄さんが「大事にしていた」という記憶だけが残る。

 ただ、地震学界では違った。今から90年前、有名な学者が港を訪れ、史料の存在に驚きの声を上げる。

 当時、関東大震災(1923年)の発生を予言したとして、「地震の神様」とあがめられていた東京帝国大学教授の今村明恒氏。ここから、地震の発生確率を巡る議論も動き出す。

 ◆ 

 南海トラフ地震は100~150年周期で起きるとされ、備えが必要であることは間違いない。ただ、国が公表している「今後30年以内に70~80%」という発生確率を巡っては、学者の間にも疑義があり、「科学的でなく政治的決断だった」との指摘もある。地震予測をどう考えるべきか。室戸文書からひもといていく。(報道部・山崎彩加)

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