2022.10.25 08:35
軍国少年が命救う医師に…94歳現役「はまだ小児科」の浜田義文医師―そして某年某日(22)
診察中の浜田義文さん。「たんが絡むかどうかで、処置が変わるんです。その音を確認しますね」(高知市桟橋通1丁目の「はまだ小児科」=山下正晃撮影)
さまざまな人や風景の「ある日」「そのとき」を巡るドラマや物語を紹介します。
「熱冷ましは本人がしんどい時、控えめに使ってください。子どもの熱の高さは、病気の重さと必ずしも一致しない。特に3、4歳までは、すぐ跳ね上がります。ぐったりすれば別やけど、そこそこの元気、食欲があれば大丈夫」
「それとお母さん、これも頭に入れておいてください。子どもがしんどいのは、下痢よりも嘔吐(おうと)。子どもは大人以上に、水で生きている。その水分が取れなくなりますからね」
浜田義文(ぎぶん)さんは1928(昭和3)年生まれ。94歳、現役の小児科医だ。「はまだ小児科」(高知市桟橋通1丁目)で、今は週2回の診察に当たっている。
「長い経験が生きる場面も、多いんです。まだお役に立てるかな、と。あまり知られていないけど役に立つ知識のあれこれを、お母さんらに伝えたい」
人生最大の岐路は、45(昭和20)年8月に訪れた。当時17歳の浜田さんは、軍の幹部養成学校の生徒だった。敗戦に伴い軍は消滅、学校も廃止された。
もしもあの戦争が、もう少し長引いていたら―。浜田さんは本土決戦の戦場に投入されていただろう。
◇ ◇
44年春。「陸軍幼年学校」2年生、15歳の浜田さん(本人提供)
「20人に1人の合格率」と聞かされた狭き門を突破して、43年春に入学。太平洋戦争の開戦から、1年半近くが経過していた。この時、14歳。
厳しい軍事教練を繰り返しながら最終学年の3年生になった45年、敗色はいよいよ濃厚となった。
浜田さんらは、敵戦車の下にもぐり込み自爆する訓練を反復した。日本の対戦車砲の弾は、米軍戦車の分厚い装甲にはね返される。だから歩兵が戦車に接近し、弱点である底の部分を狙った。
技術や生産力などの不足を、現場の多数の人命で補う。旧軍の悪弊の一つだが、浜田さんには迷いがなかった。
「軍隊で“純粋培養”されましたから。軍国主義の塊で、命知らず。単純といいますか…。自分の身を捨てて、こいつ(戦車)をやっつけな、いかんと。国家・国民のため、喜んで死ぬつもりだった」
ある日、学校敷地内で、敵機の機銃掃射を受けた。わずか数メートル脇を、銃弾が次々とかすめた。この時は「恐ろしい」と感じた。
◇ ◇
このころ浜田さんら3年生は、下級生を率いて戦場に向かう態勢を整えていた。
陸幼は、全国から13、14歳のエリート少年を選抜。その生徒たちはいずれ、軍組織の中枢を担う。その人材すら、戦車への体当たりを想定して前線に送り込む。日本軍は末期状況に追い込まれていた。
浜田さんの覚悟は固かった。戦場では常に先頭に立つ。死ぬ時は倒れてなお、敵の足に食らいつく―。
「敵は『勝つか負けるか』で戦場に臨んでくる。こちらは『勝つか死ぬるか』なんです。だから(ある局面まで)日本の軍隊は強かった」
同校の教育は、軍事一色でもなかった。午前中は外国語、音楽を含む「学科」、午後が「教練」。
ちなみに浜田さんは「日本が戦争に勝てば英語はいらんかな」と考え、外国語はドイツ語を選択した。
教官や上級生に殴られたことは、一度もなかった。
「むしろ土佐中で、よく殴られました。医学部では教授の命令が絶対で、軍隊より厳しかった」
45年8月の敗戦、そして軍の解体に伴い、陸幼も廃校となった。浜田さんは身一つで、焼け野が原となった高知に帰郷。ひとまず土佐中に復帰した。
敗戦は悔しかったが、もう空襲におびえることもない。平和のありがたさを実感した。
一方で、自らの将来を、ゼロから描き直す必要がある。当時17歳。さあ、これから何で生きていこう―。
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