2022.08.21 05:00
「得難き博学の士との出会い」シン・マキノ伝【4】 田中純子(牧野記念庭園学芸員)
牧野は、明治12(1879)年に教えていた佐川小学校を退職して、高知市に出た。このときの決意について「自叙伝」に「学問をするにはどうも田舎に居てはいかん、先に進んで出ねばいかんと考え、小学校を辞し高知へ出かけた。その頃東京へでることなどは全く考えなかった。東京へ行くことなどは外国へ行くようなものだった」とある。
高知では五松学舎という塾に入った。弘田正郎という人が経営していて、講義は漢学が中心であった。牧野はやはり植物・地理・天文に興味があってそれらの本を勉強していたので、講義はあまり聴きに行かなかった。数カ月高知市にいるうちにコレラが流行したため、ほうほうの体で佐川に戻った。「自叙伝」にはその時の面白い話として、石炭酸をインク壺(つぼ)に入れそれを鼻の穴になすりつけてコレラの予防としたが、鼻がヒリヒリ滲(し)みたということが記される。明治12年に日本でコレラが大流行した時に、平尾賛平が石炭酸に他物を加味調合してこれを紫の絹袋に納めて「コレラ病よけ匂ひ袋」と名付けた予防剤を発売したところよく売れて、まがい物も作られたということが記録にある。牧野のインク壺はこれと関係があるのであろうか。
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