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2022.06.29 08:30

「富太郎、時計バラバラにする」シン・マキノ伝【1】 田中純子(牧野記念庭園学芸員)

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 今年3月に高知県高岡郡佐川町を、牧野富太郎博士のひ孫さん、牧野一浡(かずおき)氏とともに訪ねた。同地に行くのは筆者にとって2度目で、練馬区立牧野記念庭園がリニューアルオープンした平成22(2010)年8月より前に、博士が生まれ育った地を一度見てみたいと思い訪ねて以来のことであった。ちょうどソメイヨシノが開花し始めていた。「佐川くろがねの会」の元代表・竹村脩氏のご案内で牧野公園に行き、博士のお墓参りをして同会の方々が作られた桜餅を供え、牧野家一族のお墓にもご案内していただき冥福を祈ることができた。こんなにうれしいことはない。博士がこの佐川から大きく羽ばたいて、東京で植物の研究に打ち込んでいくようになる、その揺籃の地で少年富太郎は何を見て何を吸収し何をやろうと考えたのであろうか、と次々に疑問が湧いてきた。

 牧野は今からさかのぼること160年前の4月24日に佐川で生まれた。160年前というのは文久2(1862)年のことで、江戸時代の終わりごろである。高知県は土佐と言い、山内豊信(容堂)が治めていて、新しい日本をつくり上げるため坂本龍馬、後藤象二郎、板垣退助らが身を挺して活躍していた時代であった。佐川は高知市から西へ28キロほどいったところにあり、周囲を山で囲まれ春日川が町に沿うように流れている。また、土佐藩家老・深尾氏の城下町で、藩主容堂が学問を奨励したのと同様に学問がさかんに行われ、今もその伝統が受け継がれている。「佐川山分、学者あり」と人がよく言ったものであると牧野も「牧野富太郎自叙伝」(1956年刊行)=講談社学術文庫、以下自叙伝=に記している。山分は「山がたくさんある」という土地の言葉で、学者も多く輩出したのである。牧野が生まれ育った時代背景はこのようなものであった。

牧野富太郎の生家を復元した「牧野富太郎ふるさと館」(高知県佐川町)

牧野富太郎の生家を復元した「牧野富太郎ふるさと館」(高知県佐川町)

 牧野の生家は、岸屋という酒造業と雑貨店を営む古い商家で、近くの村にも知られていた。佐川の町ではいろいろな商売がなされていたが、とりわけ水のよいところなので酒造りに適していた。したがって町の大きさに比して酒家が多かったのである。

 牧野の父親は牧野佐平と言い、母親は久寿と言い、2人の間に生まれたたった1人の子供が牧野であった。幼名は誠太郎と言った(牧野逝去後見つかったへその緒と髪の毛を包んだ紙には、名前が「成太郎」、誕生が「四月二十六日」と書かれてあった)。父親は牧野が3歳のときに、母親はその2年後に相次いで病死した。母の死の翌年祖父も旅立ち、牧野は祖母によって牧野家の大事な跡取りとして育てられることになる。幼い時は体が弱く、祖母は牧野の胸に骨が出ていると言って心配し、体を丈夫にするためにお灸をすえられることもあった。また、10歳ぐらいのとき友達に、牧野が痩せて手足が細長いことと姿がどことなく西洋人めいていることから「西洋のハタットウ」とからかわれることもあったという。ハタットウは、バッタを意味する郷里の言葉である。晩年の牧野の写真を見ても、鼻が高く撮影された角度によっては西洋人のような顔立ちに見えることがある。

 岸屋は祖母が采配を振って番頭の佐枝竹蔵とともに家業を切り回した。祖母は浪子と言い、歌を詠み書に巧みな賢婦人であった。あまりに岸屋に不幸が続いて起きたので、その頃に誠太郎は富太郎と改名された。この祖母こそ、細かいことに干渉しないでしっかりと牧野を育て上げた人物であり、成人して後植物の研究という一筋の道を歩むことになる牧野の礎を築くのに大いにあずかったのである。

 幼年時代の最初の思い出は、乳母に背負われて越知村にある乳母の家に行きその家の藁葺き屋根が見えたことをおぼろげに記憶しているという牧野の談である。おそらく物心がついたころのことと思われるが、外界への好奇心の芽生えと言えるのではないであろうか。それ以上に、番頭さんが見せてくれた珍しい時計をバラバラに分解してしまったという思い出話は、後年の牧野のありようを思い起こさせるのにふさわしいエピソードである。時計がチクタクチクタク動くのに興味をもって、どのような部品からなるのかを知りたくて納得いくまで中を調べた。そうしたら元通りに組み立てることができず、「誠太さんには困ったものだ」と皆に言われたという話である。しかし、ものの仕組みを調べることの面白さはこのときに芽生えたのであろう。牧野が花や実を解剖してそれらのつくりを観察しかつ詳細に描画するようになるきっかけは、この時計のバラバラ事件にあったのかもしれない。(田中純子・練馬区立牧野記念庭園学芸員)
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 長期連載企画「シン・マキノ伝」は、生誕160年を今年迎えた高知県佐川町出身の世界的植物学者・牧野富太郎の生涯をたどる最新の評伝です。筆者は東京の練馬区立牧野記念庭園の田中純子・学芸員です。同園は牧野が晩年を過ごした自宅と庭のある地にあり、その業績を顕彰する記念館と庭園が整備されています。田中学芸員は長らく牧野に関する史料の発掘や調査を続けている牧野富太郎研究の第一人者です。その植物全般におよぶ膨大な知識の集積、目を見張る精緻な植物図の作成、日本全国各地の山野を歩き回ったフィールド・ワーク、およそ40万枚もの植物標本の収集、そしてその破天荒ともいえる生き方……。新たに見つかった史料や新しい視点で田中学芸員が牧野富太郎の実像を浮き彫りにする最新の評伝を本紙ウェブに書き下ろします。牧野博士をモデルにしたNHK連続テレビ小説「らんまん」が始まる来年春ごろまで連載する予定です。ご期待ください。
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 たなか・じゅんこ 1964年、東京生まれ。上智大学大学院修士課程卒業(歴史学専攻)。中高等学校で教師を勤めた後、東京国立博物館で江戸から明治時代にかけての博物学的資料の整理調査に当たる。2010年、リニューアルオープンした練馬区立牧野記念庭園記念館の学芸員となり現在に至る。植物学者・牧野富太郎をはじめ植物と関わったさまざまな人たちの展示を手掛ける。

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