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2021.10.26 08:40

深夜の「ご飯工場」に潜入 高知市中のおなかを満たせ!【動画】―そして某年某日(10)

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さまざまな人や風景の「ある日」「そのとき」を巡るドラマや物語を紹介します。

「しんどい」逆手に商売を

 夜な夜な大量の米飯を炊き続けている工場が高知市内にある。高須2丁目の「OFFICEライスマン」。聞き覚えがないかもしれないが、県民ならまず間違いなく、ここで炊いたご飯を食べたことがあるはずだ。

中村敏彦社長=中央=が手を置く釜の中には米と水。右の機械内で炊きと蒸らしの工程へ。深夜から早朝まで次々と炊く(工場の写真はいずれも高知市高須2丁目=森本敦士撮影)

中村敏彦社長=中央=が手を置く釜の中には米と水。右の機械内で炊きと蒸らしの工程へ。深夜から早朝まで次々と炊く(工場の写真はいずれも高知市高須2丁目=森本敦士撮影)

 商品は白ご飯とすし飯、麦ご飯、まぜご飯。少ない日で2トン、年末など繁忙期は14トン炊く。ざっと1万3千人から9万3千人前。販売先は旅館、ホテル、料亭、スーパー、催事など幅広く、老舗と言われてぱっと思い付くような場所のご飯も手掛ける。

 「工場で?」と侮ってはいけない。量、硬さ、粘り、香りなど、客先に合わせてあらゆる指定に対応する。指定品種の米を、漬け時間、火加減、蒸らし加減の調整で自在に炊き分け、門外不出レシピをあまた請け負う。

 中でもウエートが大きい事業が高知市小中学校の学校給食。全体の7割を占める1万6260食を担当する。受注し始めて26年間、子どもたちのおなかを満たし続けてきた。

2トントラックに積み込まれたご飯。行き先の学校、クラス名が書かれている

2トントラックに積み込まれたご飯。行き先の学校、クラス名が書かれている

 業績は緩やかに右肩上がりを続け、今年8月に新工場が稼働。今期の売上高は1億6千万円を見込む。

 業界内で存在感を放つご飯工場の歩みは、62年前の安芸市で、一軒のすし屋から始まった。「ずいぶん大きゅうなった。おやじに見せちゃりたいなあ」。現社長の中村敏彦さん(65)が、創業者の中村弘さん=故人=を思い出して目を細めた。

 ◇ 
 山梨県出身の弘さんは、猪突猛進(ちょとつもうしん)型の性格だったという。製紙会社員として原料の木材買い付けで来高し、旧窪川町の女性に一目ぼれ。退職して駆け落ち同然で結婚し、長男の敏彦さんが3歳になった1959年、安芸市本町の路地で「とりで寿し」を創業した。

 街のすし屋を営みながら砂利採取、バッティングセンター、植木関係にも進出。「手を広げすぎたのか」(敏彦さん)、76年ごろ店をつぶしかけ、知人から資金を工面して再出発した。

 同時期、地域の議員が「大型量販店のニチイが高知市進出を計画している」とのニュースを持ち込んできた。後に黒船と呼ばれる、県内最大規模の量販店。弘さんは「大チャンスや」と、再開したばかりの店をたたんだ。

 78年、とりで寿しは、旭町3丁目に開店したニチイ内のテナントに入り、持ち帰り専門として営業を始めた。厨房(ちゅうぼう)をガラス張りにし、実演形式とした販売が大当たり。職人の技を一目見ようと人だかりができ、サバずしやいなりずしが飛ぶように売れた。

ニチイに開業した「とりで寿し」。実演と持ち帰り形式で大人気となった(1978年、高知市旭町3丁目)

ニチイに開業した「とりで寿し」。実演と持ち帰り形式で大人気となった(1978年、高知市旭町3丁目)

 店内で食事できるカウンターも設置し、店外で移動販売も行った。ただ、時がたつにつれて他の大型スーパーも増加。94年、車で10分の同市朝倉東町にフジグラン高知が開店し、客がごっそり流れてしまうことに。

 「次の一手は…」。フジグラン高知が開店する少し前。閑古鳥が鳴き始めた店で弘さんが思いついたのが、「ご飯を炊いて売る」商売だった。

 ◇ 
 すし職人たちは大反対した。45年前から勤めてきた入山大日地(たひち)さん(66)は「シャリは職人の命。絶対に売れるはずがないと思った」と振り返る。

 弘さんは「売れる」と譲らなかった。すし飯は市場に仕入れに行く前に午前3時ごろから炊き始める。「そんなに早うから、みんなしんどいろう。しんどいことは商売になる」

 妻が止めるのも聞かず、自宅の土間に5升炊きの釜を設置。調理士会のつながりを使って、ある老舗旅館に「絶対に味を再現する」と売り込み、注文を取ってきてしまった。

 同旅館の料理長は頑固で有名だった。「そしたら私たちも職人ですから。魂をくすぐられたというか」(入山さん)。培った技術を駆使して米を炊き、旅館から預かってきたすし酢を合わせる形で、老舗の味の完全な再現を試みた。

 「硬い」「ねばい」「冷えちゅう」「もっと早う持ってこんかっ」。怒号を浴びながらやり直しを重ねたが、最終的に納得してもらい、定期的に受注がもらえるようになった。「あの料理長がOKを出すなら」と一気に評判が広まった。

 米飯を炊くことに特化した業者は、県内でほぼ初めてだった。すぐに県学校給食会から打診があり、工場を借りて生産体制を増強。95年4月、給食の受注を始めた。合わせて会社の名前を、おなかがすいた子どもを助けるアンパンマンから着想して「ライスマン」と変えた。

 ◇ 
 2021年10月、午前3時。生米を入れた金属製の釜は次々にベルトコンベヤーに載り、ガス窯の中に進む。約20分後、甘い香りが辺りを包み始める。ふたを開くと、つやつやのご飯から勢いよく湯気が立った。

勢い良く湯気を立てる炊きたてご飯

勢い良く湯気を立てる炊きたてご飯

 8月に完成した新工場は、延べ床面積840平方メートルとコンパクトながら、これまでの2倍の受注に対応している。「機械や水の調整を重ね、10月に入ってやっと稼働が安定してきた」と敏彦社長が胸をなで下ろす。

 敏彦社長の前職は高知中高の社会科教員。野球部で長年監督や部長を務め、18年に退職して家業を継いだ。「これまでも360日は野球に関わりながら、実は残り5日はここを手伝ってきた。退職後も給食を通して教育現場に関われて、うれしいし、やりがいがある」と、「鬼部長」として知られた顔を柔らかくほころばせる。

 「とりで寿し」の屋号は消え、受託先の味を再現する業態に変化した。「でもね、残っちゅうがですよ」と入山さんは誇らしげだ。「学校給食向けのすし飯はね、安芸市の創業当時から続く、とりで寿しの味ながです」

 62年前、猪突猛進型社長が考案したすし飯は、酢と塩がきりっと効いた辛口。今も年に数回、高知市中の子どもたちが頬張っているという。(竹内悠理菜)

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