2007.10.29 08:00
『本城直季 おもちゃな高知』赤鉄橋のじいちゃん
堤防沿いのススキが風に揺れる。四万十川に架かる赤鉄橋のたもと。1軒の小さな喫茶店――。がらんとドアを開ける。こぢんまりした店内。入ってすぐの所に5席ほどのカウンター席がある。そこは“じいちゃん”の指定席。毎日、午前11時ごろになると店にやって来て、モーニングを注文する。
じいちゃんこと、芝崎博一さん(84)は、赤鉄橋から歩いて5分ほどの所で生まれ育った。80歳を過ぎた今も、愛車のカブをさっそうと乗りこなし、店までやって来る。昔はやんちゃもしたというじいちゃん。詳しく尋ねると、ちょっぴり自慢げに話し始めた。
「10代の時よ。台風の後の大水の時にわざと泳いでね。赤鉄橋の橋台の所にぺたっと張りつく。橋台と橋台の間は渦ができちょったけん、そこにもぐるがよ。そしたら、体がきりきり舞うてね。その肌に感じる渦の感触がなんとも言えんよかった。でも、がいなことしたわ」
じいちゃんがへへっと笑う。赤鉄橋は幼いころから一緒に遊び、じいちゃんのやんちゃな部分も悲しみも喜びも知っている友達だ。ともに過ごした年月の分、思い出も尽きることはなかった。そんなじいちゃんが、橋のもとを1度だけ離れた時期がある。18歳の時、太平洋戦争で徴兵され、中国に渡った約4年間。
「ぼくらあ、外地におったろ。そしたら、風の便りで、いんでえいことはないと聞いた。町は焼け野原になっちょう言うて。向こうで結婚する連中もいっぱいおった。でも、ぼくは母親1人やったけん、どうしてもいにたいと思いよった」
終戦後、中国東北部の瀋陽に集められた。ぎゅうぎゅうの列車に詰め込まれ、船に乗り、博多へ。四国に渡る船が出ると聞いて飛び乗り、ようやく宇和島に着いた。それからはバスに揺られて、ゴトゴトゴトゴト――。
昭和21年6月、赤鉄橋の町にじいちゃんは戻った。家までの道。周りをきょろきょろ見渡しながら歩いた。“友達”は姿を変えることなくじいちゃんを迎えてくれた。うれしかった。わが家の前に立った。外から、土間でわらじを編む母の姿が見えた。思わず叫んだ。
「おかあっ、帰った」
じいちゃんの姿に、おかあの目から涙がぼろぼろこぼれた。
「腹減っちょうろ」
その一声をじいちゃんは今も忘れない。おかあはすぐにお釜にまきをくべ、ごはんを炊いてくれた。麦が入ったごはんだった。じいちゃんも泣いた。
じいちゃんは言う。「人生、おもしろい。いろんなことがある。でも、人間いうのは逆境に耐えれるかどうかによるろう。ぼくらあ、もう大まかなことしか覚えてないけん。テレサ・テンの歌のようなもん。『時の流れに身をまかせ』かね」。また、へへっと笑うじいちゃんの目尻がきゅっと下がった。
夕暮れ時。赤鉄橋の町が赤く染まる。家路を急ぐ車が列をつくり、自転車に乗った学生が次々通り過ぎる。じいちゃんの言葉を思い出す。1人足を止め、目を閉じた。心地よい時間が流れた。また、この町が好きになった。(横山仁美)