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2007.08.13 08:00

『本城直季 おもちゃな高知』電話の向こうの「おかぁー」

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高知市中宝永町周辺


 電車通り沿い。間口が狭く、ややくたびれた店構えののれんをくぐると、10席のカウンターと4人座るのがやっとの座敷。奥にも10人くらい入れる座敷があるそうだが、この日は用無しだった。
 
 高知市中宝永町の寿司(すし)屋「網元」。若い大将(37)が「いらっしゃい!」と、威勢よく迎えてくれた。頭にビシッと巻いた手ぬぐいが決まっている。大将は、カウンター席に座る3人を相手にしていた。もう1人の「店の顔」である母親はこの日、体調を崩して店には出ていなかった。
 
 大将が生まれて3年後の昭和48年に開店。両親はこの店のほかに、市内で寿司屋と魚屋を4軒営んでいた。父親はカツオのたたきを売りに全国の物産展を回り、家を空けることが多かった。
 
 あまりの忙しさに、大将は2歳から近くの家に里子として預けられた。
 
 「物心つく前のことですから、里子に出されちょったことは疑問にも思わんかった。里親の家ではちやほやされてね、家にいるよりずっとよかった」
 
 4人きょうだいの2番目。二つ下の弟も別の家に里子に出ていた。2人が家族と過ごすのは土日だけ。唯一の楽しみは、母親がどちらかの日の晩に連れて行ってくれる外食だった。
 
 「きちっとした服でめかし込んでね。『靴の後ろを踏んじゃいかん』なんて言われて。大丸やとでん西武でお子様ランチ食べたり、レストランとか行ってね。おふくろはなんだかんだいって優しかったですね」
 
 親子が顔を合わせて話せるわずかな時間。学校であったことなどを一生懸命話した。一緒に暮らすようになったのは小学1年生になってから。弟も同じころに帰ってきた。でも相変わらず母は多忙な日々。「学校から帰ってきたら夕食が構えてあって、『温めて食べなさい』なんていう置き手紙があってね。テレビが親代わりみたいなもんでしたよ」
 
 楽しみは夕方に一度、店から母が家にかけてくる電話。「電話が鳴ると弟と奪いおうてね、切る前には『もう一回、もう一回』って。声聞くだけでもうれしかった」
 
 大将はその後、高校に入学するが、1年で中退。20歳で上京し、寿司屋で働いていた。そのころ、高知では両親が築いた四軒の店は事情があって閉店し、心労が重なった父は体を壊して働けなくなっていた。24歳の時、1人で頑張っていた母も倒れ、帰郷。程なく、「大将」として板場に立ち始め、母親と2人で店を切り盛りするようになった。
 
 人前では母親を「おふくろ」と呼ぶものの、実は、面と向かっては「おかぁー」と言う。「やっぱり、ちょっと恥ずかしくてね」
 
 そんな「おふくろ」さんが、たった1人で守ってきた店。大将は「家庭的で、お客さんがホッとしてくれる店」でありたいという。店のカウンターには、年季の入った黒電話。店の昔話を尋ねると、「ちょっと待ってくださいよ」とダイヤルを回した。「あ、おかぁー?」―。甘えたような声が店に響いた。(加治屋隆文)

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