2019.12.24 18:02

【いのぐ】石巻市出身・佐藤麻紀さん講演詳報 津波で大事な人、喪わないで「どう逃げるか相談を」


 高岡郡中土佐町の久礼中学校で21日に開かれた「久礼いのぐ塾」で、東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県石巻市雄勝町出身の佐藤麻紀さん(48)が講演した。その内容を紹介します(一部編集しています)。

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       ◇

 語り部の佐藤麻紀と申します。話を始める前に、雄勝町の津波の様子を映像で流します。小さい町で、中土佐町と似ているんですよ。中土佐町に津波が来たら、たぶんこういう感じになるんじゃないかなと。まず見てください。

 (映像)

 いま皆さんに見てもらったのは8年前の震災の映像なんですけど、これは過去の映像というだけではなくて、未来の映像でもあるんです。もしかして、皆さんがこれから津波に遭った時に、ああいう場面に身を置くかもしれない。もしかしたら、皆さんの大事な人がそこにいるかもしれないという未来の映像でもあります。

 まず、語りを始める前におわびとお願いがあります。

 おわびは、標準語で頑張りたいんですけど、雄勝弁でしゃべります。浜言葉で速いので聞きにくいかもしれません。お願いは、話に入り込んできてください。今日みんなは授業で聞いてるかもしれないけど、一人の人間として聞いてほしい。そういう目線で聞いてほしい。おつきあいください。
 
 
 8年前、3月11日、私は雄勝町のスーパーでパートをしていました。そこで揺れたんです。思い切り揺れました。突然でした。ガダガダガダって。レジの所にいたんだけど、おばあさんが1人、お客さんでいらっしゃったけど、おつりを渡すタイミングで揺れたんです。そのおばあさんはおっかなくて(恐ろしくて)、レジの台をつかんで悲鳴を上げていました。きゃーって、ずーっと。
 
 私は普段歌を唄(うた)うバンドマンなんで、いくらでも声を出せるはずだったのに、その時は生まれて初めて声が出なくなってしまった。おばあさんの手をつかんで、レジが倒れてこないようにして、耐えていたのね。揺れが少し収まってきて、おばあさんが店から出ようとしたんで、私声を掛けたの。「うぢさけんねで、山さ上がってけらいんよ。津波くっからね」。いいですか、うちに帰らないで山に上がってくださいね。津波が来るからねと。

 
 私はというと、小学校3年生の男の子と6年生の女の子が学校に通っていたから、すぐ、子どもたちの所に行きたかったんですよ。だけども、レジに午前中の売り上げがまるまる入っていました。社長と奥さんが遅い昼休みで家に帰っていて、どうすっぺと思っていたら、急いで飛んできてくれて、「麻紀ちゃん大丈夫かー? 店から出はれー。危ねえがら出はれー」って。私が「レジにお金入っている」って言ったら、「お金なんてどうでもいいから出てきなさい」って叱られて、それで店から出ました。
 
 雄勝町は昔から津波が来る地域なのよ。で、私たちは小さい時から、「揺れたらとにかく山に逃げろ」「津波が来るからな」と教わってきた。逃げたい。すぐに逃げたい。時間がない。
 
 奥さんに「子どもたち迎えに学校さ行くんだよ」って言われ、私は車に飛び乗ったんです。
 
 メインストリートに出てハンドルを右に切って1㌔行くと、雄勝小学校があります。だから、ハンドルを右に切ればいいんだけど、ハンドルを握った手が動かなくなってしまったの。
 
 反対側に1㌔行くと、私が生まれた家がありました。私の実家が。私の母親、父親がいました。で、実家の向かい側、海側に病院があって、そこの3階に私のおばあさん、92歳になるぴいちゃんがいました。私の子どもからすればひいおばあちゃんなので、みんなでぴいちゃんと呼んでいたんです。
 
 だから、ハンドルを握って私が考えたのは、子どもたちの所に行きたい。けれども、私のお母さんは優しくて芯の強い人で、揺れたと同時に病院へ突っ走って行ったかもしれない。だから助けに行きたかった。母ちゃんの手助けに行きたかったの。本当は私、会いたかったんだと思う。
 
 だけども子どもたちのこと心配だったっちゃ。でも、嫁いだ先の義理の父親がタクシーの運転手さんで、普段の訓練でも迎えに行ってくれてたから。間違いない、揺れたと同時に学校に突っ走っているって。これは絶対だと思ったから、病院の方にハンドルを切りたくなった。
 
 ハンドルを握ったまま右に切るか左に切るか、すごい短い時間でこんなに悩んだことないってくらい迷って。そしたら、そこにいないはずのお母さんの声が聞こえたの。「ばがやろー」「母親だったら母親の仕事しろ」「子どもだぢのごど迎えさ行げー!」って。だから「お母さんごめん」って、ハンドル右さ切ったの。
 
 校庭に乗り入れたら、訓練の時にあれだけきちきちしている子どもたちが、あの日は、整列している余裕がなかった。ランドセルとか上履きの袋とか、持てる物を思いつく物を持ったんだと思う。そこら中に散らべてあって。私はその中を突っ走ったの。頭の中は娘と息子のことでいっぱいで。先生に「うちの子は!?」と。
 
 「佐藤さん大丈夫、子どもたち2人は無事で、おじいさんが迎えに来たから、おじいさんと一緒にうちに帰りましたよ」と言われた。「いがったあ! 子どもだぢ、けがしねで逃げだんだっちゃ」と。私も帰ろうとしてると、目の前にまだ迎えが来ていない子どもたちの顔があるんですよ。こっち見てんの。「どうしたらいいの」って顔してんの。
 
 私はPTAの役員を務めたこともあったから、しょっちゅう遊んでて、100人ちょっとの小さい学校だから、子どもたちも私のこと分かっている。その子どもたちを見てて、うちの子の顔と重なってしょうがなくて、逃げられなくなった。
 
 私は「先生、あの子どもたちどうするの? 津波来っから山さ上げで」って先生に頼みました。でもまだ揺れてたから。子どもたちはころころ前に後ろに転がるようにして、手を地面について、一生懸命耐えている状態でした。
 
 こごさいだら津波来てしまう。「校長先生、子どもだぢ早く山さ上げで!」。でも、残念ながら当時の校長先生は津波のことを勉強不足で呆然(ぼうぜん)としていました。だから、私が一生懸命訴えても、校長先生の視線は素通りして行くんです。私の話なんて聞こえていない。でも叫んだ「山さ上げでけろ!」。
 
 そのうち、子どもたちのお父さん、お母さん、家の人たちが学校に駆けつけてきました。そしたら、子どもたちはとっくに山に避難していると思ってたのに、校庭にいるわけでしょ。お父さんたちは怒るわけさ。「何やってんだっけ!」って怒り始めて。それでも校長先生からは避難のゴーサインが出ない。そしたら、他の先生たちが子どもたちの背中抱くようにして、後ろからかばうようにして「大丈夫だから」と裏山に上げてくれた。よし、これで大丈夫だと思ったよね。
 
 本当なら、私も子どもたちと一緒に山に避難しなきゃいけなかったんです。こっちでは言うかな? 「津波てんでんこ」って聞いたことある? 津波の時は人にかまっている暇なんかない。助けている暇なんかない。それぞれちゃんと逃げなさいという言葉なんだけど、実は裏にすごく大きな意味があって。
 
 人のこと助けねえで逃げろって、冷たい言葉に聞こえるでしょ? でも違うの。これって、津波の時は人の命を助けるほどの時間がない、だから逃げないといけない。だったら大事な人を残していくのか? 残していきたくない。みんなで助かりたい、そのためにはどうしたらいいか。それを普段から相談して、話し合って、準備しておきなさいという言葉なんです。本当の意味はそこなんです。
 
 この言葉の意味も分かっていたんだけど、あの時は浮かんでこなかった。頭の中は「早く子どもだぢのどごさ行かなきゃ」てその気持ちだけで精いっぱい。だから車に飛び乗って、うちまで走った。
 
 うちは高台の坂の下の方にあったんです。うちのおじいさん(義父)だったら、高台に上がってくれていると思ったの。だから私も高台まで車で上がったの。そしたらおじいさんも子どももいて、いがったー(良かった)ってなった。
 
 雄勝町って海の仕事以外の働く所が少ないんだ。大人の多くは30㌔離れた石巻の中心部に行って仕事しています。昼間は力のあるお父さん、お母さん世代がいないんだね。地区のおじいさん、おばあさんは家にいて被災して、たんすとか倒れてきた時、動けなくなっていたら大変だなと思って。おじいさんに「走って見て回ってくるから、子どもたち頼んだね」って。地区を見て回って車を止めたところまで戻ってきて、「さあ、子どもたちと一緒にいなきゃ」と思ったら、おじいさんいなくなってるんですよ。
 
 「寒いから、家に毛布を取りに戻った」って言うんです。いつ津波が来てもおかしくない時間になっているんですね。時間随分たっているんです。これはどうすっぺな。なんで(高台から)下がったかなって考えながら、「100㍍くらいだから走って行げばいいべ。海おがしげれば戻ってくればいいべ」と思って走った。
 
 海見ながら、「おっかねえ」と思いながら走って、坂を下りきって。うちの手前の隣の家の庭か、どこかの空き地か定かじゃないけど、〝波打ち際〟が見えて、白波が立っていた。音がしてました。さーっと。40年雄勝に住んでいるけど、聞いたことない音と波で、おかしいなと思って、家に近づいた時に、はっと気付いたんです。これはぴいちゃんが教えてくれたような津波ではないんだと。
 
 ぴいちゃんからは小さい時から津波と戦争の話は耳にたこができるほど聞かされた。
 
 「津波はうんとおっかねえんだ」「津波は海の水、沖の方さ、ざーっと引いてしまって、海の水ねぐなんだ(なくなるんだ)」「底見えんだ。魚がぴちぴちはねんだ。面白がって取りに行ったら、おまえの命が取られるから行ってはわがんねど(ダメだぞ)」と。
 
 だからぴいちゃんの声が染みついているんです。波立っているって言ったでしょ。おかしいと思ったのね。これが第1波だ。水が引ききる前に来てしまったんだ! 「おじいさん~、1波が来てる、早く」と言うと、おじいさんが毛布を抱えて玄関から出てきた。「おじいさん、走って、1波だから」と。私も毛布を抱えて、坂を駆け上がって、おじいさんの車が止まっている所まで駆け上がって、自分の車の所まで来たんです。
 
 車が邪魔になるかもしれないと思って動かそうとしたら、子どもとおばあさんがそこで右往左往しているの。パニックを起こして、言葉になってない。まずいと思って近くの庭に車を止めて、私もそこに行くと、私も同じ状況になったんです。なぜかと言うと、高台に来ているのに、あちこちから「津波だー」と声が聞こえるんです。普段訓練で避難している所まで来ているのに、津波だぞーって。ここでも間に合わないの? どうしたらいいの?と。
 
 そしたら、「山だー、山さ上がれー」って叫んだ人がいた。今度はみんなが口々に「山に上がれー」って。おじいさん、おばあさんたちが先に山に上がりました。普段杖をついている人たちが、あの日は速かった。後で考えると、戦争を経験している、要は命が奪われる時の瞬間を知っている人たちは、余裕なんかない、容赦ないと分かっている。だから速かった。山にしがみついて上がっていった。子どもたちも一生懸命上がっていった。
 
 子どもたちが上がって行くのが見えたから、初めて自分も上がろうと思った。子どもたちは上から「お母さーん、津波が来てるから、早く上がれー」って叫んだ。それ以上、山の上に上がろうとしないので、私は「上がれ」と叫んだ。手が震える。足がばたばた。ああいう時、なんというか、骨を抜かれたというの? 内臓とか体に詰まっているものがすとーんと、落ちきってしまったみたいな。力の入れようが分からない。
 
 海の方を振り返りながらばたばたしたの。でも頭の中に、どこが妙に冷静な、冷たい所があって。波来ているの見て、音も聞いて、においもしてて、でもどこか冷静にこう思っていた。「人間って死ぬ時こんなに簡単に死ぬんだ」「地球がめくれ上がってるんだもの」って。
 
 津波の水の泥水、空も灰色だったし、境目が見えなくなって。普段なら見えるはずの雄勝病院の白い建物が見えなかったの。湾の向こうにある雄勝病院が見えなくて。そういうこと考えながら手足ばたつかせながら。そしたらいまだどうやって上がったか思い出せないけど、やっと畑の所まで上がれたの。振り返ると、私の車も押されて、水に巻かれ、流れた。
 
 そういえばぴいちゃん、こんなことも言ってた。「麻紀いいか、1波で逃げ切ったと思って安心したらだめだよ。雄勝は湾が細いから、2波、3波が重なってくっからな。もっと高いところへ逃げなさい」と。
 
 山の上は寒くて、おじいさん、おばあさんとか弱い人しかいないから、どこか建物に入りたいと思ったけど、雄勝の町はすっかりプールになってしまってる。山伝いに行けば火葬場があるので、火葬場へ行ぐべと。みんなで火葬場に行きました。火葬場で肩を寄せ合って一晩過ごしたんです。次の日、人数を数えたら128人いた。
 
 それから時間の感覚がないんですが、外から呼ばれたんです。「麻紀ちゃーん、出てこい。お父さん来たぞ」って。私が出て行くと、私の父は顔に擦り傷つくって、服もぼろぼろ、足元は泥だらけ。一晩で人はこんなに年を取るのかなっていうくらい、おじいさんの顔になっていた。
 
 一緒にいる人たちの家族が無事か分からないから、おおっぴらには喜べないでしょ。みんながいない端っこの方に行って、父と抱き合って喜んだの。海っぷちの人間で、恥ずかしがり屋だからハグなんかしたごどねぇくせに。大人になって初めて父と抱き合って、「いがったな、いがったな」って。
 
 おじいさんとおばあさんは大丈夫か? 子どもたちも大丈夫かって。夫のことも聞いてきたけど…、分からないんですよ。連絡取りようないから。
 
 私の旦那さん、車の整備士で大型車輌の整備士さんなんだよ。揺れた瞬間真っ先に考えたのは旦那さんのこと。「おらのお父さん、大型車輌の中に潜ってなければいいな」「つぶされてなければいいな」と。でも「考えてはだめだ、私のお父さんは絶対大丈夫」って考えないようにしてたの。
 
 「分がんねぇ」と言ったら父親も察したんでしょう、それ以上は聞かないんです。
 
 逆に、今度は私が聞きました。「そっちどうだったの? 実家はどうだったの?」
 
 父親は「あのな、ぴいちゃんだめだった」と言いました。でも、それはすっとのみ込めたの。だって病院が津波の水にまかれてて見えなかったの分かってるから。92歳で逃げ切れなかったんだなと。そしたら、ぼたぼたぼたって音がするんだよ。何だろうって思って火葬場の地べた見ると、コンクリートなんだけど、ぼたぼたたぼって跡が付いてくの。父親が泣いてるの。私の前で泣いたことのない人が泣いているの。大きい涙ぼろぼろたらして泣くのね。
 
 「麻紀ごめんな、ごめんな。お母さんだめだった。ごめんな」と。私馬鹿なんだわ。責めたのよ、父親を。「なんでや、なんでお母さん死んだなんて言うのや、なんでや」と責めました。一番悲しんでいる人を責めたの。
 
 後から聞いたら、うちの母、地震が起きた時に、自分の車を隣の高台に逃がして。それから海っぷちの病院へ走って行ったんだって。母ちゃん。走っていたって。
 
 うちの父親はその日遊びに来ていた私のいとこを連れて山へ逃げたけど、山に登り切ったところで病院を振り返ると、病院の屋上から津波かぶっていたって。屋上にいた病院の先生、看護師さん、看病に来ていた人たちが屋上にいたんだけど。父親は自分の母親、92歳になる母親が、そして奥さんがそこにいるの分かるのに、「手も足も出なかった。助けられなかった」って。泣きながらに教えてくれた。
 
 その後、石巻の被災が少なかった叔父さんの所や、浜の方の避難所に、無事だった夫も含めてばらばらに避難しました。ある日、叔父さんの所にいたら、父親から電話がかかってきました。「麻紀、あのな。遺体安置所に来い。お母さんとおばあさんに会えっから」と。うれしかったよ。人亡くなっているのに、うれしいっておかしいでしょ? でも、お母さんとぴいちゃんに会えると思ったから、うれしいの。「分がった! 分がった! 行ぐがら!」って。
 
 次の日行きました、遺体安置所。私が卒業した高校でした。勝手知ったるわが母校だけど、様子が一変してて、消防車、救急車、レスキュー、自衛隊の車。お巡りさんもいて、マスクして。なんだここ、なんだこれって思ったけど、お母さんに会えると思って安置所まで行きました。
 
 入り口に行ったら、大きなマットがあって、べちゃべちゃに濡れてて、「何ですか?」って聞いたら「消毒液だ」って。それを踏んで、中に入ろうとしたら、お巡りさんに呼び止められて、「いいですか、今から中に入ってご家族を捜すと思いますけど、ご家族を見つけても、決して触れないでください」って言われました。私はくってかかりました。「何でや、自分の家族だど!」って。
 
 みんなも浜の人間だから分かると思うけど、水かぶって夜一晩いればどんなに寒いか、冷たいか。真冬だよ。寒いっちゃ、痛えっちゃ、苦しいっちゃ。だからお母さんとぴいちゃん見つけたら、抱っこして、ほっぺたくっつけて温めなきゃと思ってたわけよ。
 
 でも、うんと言わないと中に入れてもらえないの。だから、「はい」って言って。なんで触ったらだめかって聞いたら、「治しようが分からない伝染病にかかったら、いまは病院機能していないでしょ。どういう状態か分かるでしょ」と。ちゃんと理由があったんです。で、中に入ろうとすると、お巡りさんが「万が一触ったら、必ずここに来て、触ったって言ってね。全身消毒するから」って言うんですよ。
 
 ステージがあって、真ん中からこっちには、運ばれてきたご遺体が並べられていた。反対の奥の方にブルーシートで高く目隠しされている所があって、そこで、連れてこられた遺体の服を脱がして、写真を撮って、この人はどういう死因で亡くなったか、どういう人か、全部調べるんです。そういうスペースだから、目隠しがされていました。
 
 おっかなかったよ、全部遺体なんだもん。「ごめんね、お母さん探しているから、歩かせてね」って言いながら探しました。そしたら、ぴいちゃんを見つけた。怖かったんだろうね、目をぎゅーっとつぶってた。
 
 見つけたら抱っこする、温めるなんて思ってたのに、通用しない世界だった。そういうの許されない世界なの。人の優しさとか、悲しさとか、そういうね、大事な気持ちが一切ないの。温かい感情なんて一切ない世界なの。みんなが自分の大事な人を一生懸命捜しているの。亡霊みたく、捜しているの。
 
 そういう所で「ぴいちゃん、こごさいだが。おら、お母さん捜すがら泣いでる暇ねぇんだ。ここさいろよ」って。亡くなっているから動かないのに、おかしいでしょ? でもね、もういなくなってほしくないから、動くなよって思うんです。その後、お母さん捜したけど見つからなくてね。遺体の袋も全部開けてもらって、写真も何回も見て。それでも出てこなかった。
 
 うちの母、後で警察の人に捜してもらって帰ってきたんだけど、私の知り合いからもらった情報では、「麻紀ちゃんのお母さんの遺体に違う人の名前が書いてあった」って。お母さんの遺体、違う人が連れて行ってました。
 
 その遺体をお母さんと証明するのに、「DNA鑑定して。私の血でも骨でも、肉でも、なんぼ削って持っていってもいいから、お母さんだって証明して。相手も責めない、約束するから。そっとお母さんを返してもらえばそれでいいから、頼むから」って言ったの。そしたら「ごめんね。もう火葬されているから、鑑定は難しいんです」って。
 
 結局、写真鑑定してもらって、相手のご家族にも「うちの人ではない」って認めてもらって。それでやっと返してもらった時には、骨になっていました。
 
 警察署に迎えに行ったら、亡くなった日は「3月12日」だった、おぼれたのかなって思ってたら死因は「凍死」って書いてあった。津波にあってから、一晩生きてて、寒くて亡くなっていました。やりきれなかったよ。「何でお母さん何も悪いことしてないのに。なんでこんな死に方を」と言ってたら、お巡りさんは「違う違う、佐藤さんが思っているような亡くなり方じゃないから。お母さん、気を失っているうちに亡くなったんだから。寒い思いしてないよ」って。うそつきました、お巡りさん。ありがたかったですよ。そういうふうに言ってもらって。
 
 遺骨を納める時に、父親に頼みました。「お願いがある。骨つぼ開けさせてって」。父は「隣の部屋さ行って、開けろ。会ってこい」って。私は弟2人と夫の4人で膝付き合わせて、この手のひらに骨を乗せてもらいました。その白くて小さな塊に「お母さんごめんね」とか「ありがとう」とか言えると思っていた。何か心の落としどころがあると思ったのに。でも違う、違うの。白い小さい骨、私のお母さん、こんな白い塊じゃないもの。
 
 みんなのお母さんどうだべ? おはようって起こしてくれて、朝ご飯作ってくれて、学校に遅れるよ、行きなさい、風邪ひかないようにしろよ、暖かくして寝ろよ。面白いテレビだね、これ食べてみろ、おいしいよ…。私のお母さんはそういうお母さんだったの。私のお母さんはこんな白いものじゃないの。だから分からなかったの。
 
 でもいつまでもそうしておけないから。骨つぼにそっと戻して、お墓に連れて行って、兄弟3人、骨つぼ抱いて、泣いて泣いて泣いて。 
 
 親ってね。子どもの涙つらいの。結婚して子ども生まれて、それすごく実感したの。だから、泣いて送ってはだめなんだって思って。お墓に納める時に、「お母さん、まだくっからな。バイバイな」って納めたの。
 
       ◇
 
 私の話はここまでで終わりになります。みなさんには私と同じ思いをしてほしくない。特に中土佐町の、雄勝のような浜の人たちには。絶対に何があっても助かってほしい。だから、よく聞いてね。
 
 こういう悲しいことあったから、頑張ってやらなくちゃ、頑張って生きなくちゃって、そんなこと言いに来たんじゃないの。どうかお願い。みんなの大事な人に、何かあったらどこに行くか、そこが危なかったら次どこに行くのか話してほしいんです。約束してほしい。どこに避難するか相談してほしいんです。喪(うしな)いたくない人と約束してほしいんです。何があっても、何が起きても、ばらばらに避難しても、必ず生きてまた再会してもらいたい、生きてまた再会しようね、そういう約束をしてほしい。
 
 私はみんなに見えない種を渡したつもりです。この種をどうか、大切な人にまいてあげてください。受け取ったその人が、大事だなっと思ったら、誰かにまた話してくれるかもしれません。そうやって広がっていくかもしれません。
 
 精いっぱいしゃべらせていただきました。ごめんなさいね、長くて、雄勝弁で分かりづらかったかと思います。どうか何があっても、命を喪わないでください。生きて再会してください。それをお願いして、私の話を終わります。最後まで聞いてくださってありがとうございました。
 
 
(講演の後、佐藤さんから高知新聞社に改めてメッセージが届きました。紹介します)
 
 お話しさせていただいた東日本大震災での私の体験は、決して貴重なものでも特別なものでもありません。被災地に来れば、そこいら中にごろごろ転がっている話です。生きてさえいれば、支えあってその後の人生を生きることができるのです。私たちは今後どのような災害があってもご自分や大切な人の命を喪ってはいけなのです。私もあの日までは皆さんと同じように、災害の真の恐ろしさを知らなかったのです。
 
 今ならまだ間に合います。どうか喪いたくない人と相談し合い、備えてください。

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