2025.11.05 08:47
【あんぱん】やなせさんの恋、同僚が応援 暢さんと「2人きりにさせてあげたい…」 日記に送別会の様子も

若い頃の暢さんと品原淳次郎さん
暢さんは1946年2月に戦後初の女性記者の1人として入社。1月に夫が病死し、自活の道を探っていた。社会部記者を経て、同年7月創刊の「月刊高知」編集部へ。当時28歳だった。編集部には青山茂編集長(当時38歳)と品原さん(同21歳)がおり、数カ月後にやなせさん(同27歳)が加わった。暢さんは同年11・12月合併号を最後に退職し、東京で県選出の国会議員の秘書となった。
品原さんの息子、康二さん(72)=高知市=が保管していた、父が46年11月20日から1カ月間だけ書いていた日記の中身を教えてくれた。
46年12月2日には、「(暢さんが)先月限りで社を退いた。しかしずっと出社している」とあった。東京行きまでの間に、人手不足の編集局を支えていたのだろうか。

品原さんの日記。退職する暢さんの行く末を案じる言葉もある




















