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2023.05.15 08:15

万太郎、東大植物学教室へ!ーなぜ牧野富太郎は受け入れられたのか?【復刻連載記事】「土佐からの珍しい男」

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 高知・佐川から上京した万太郎は、ついに東京大学の植物学教室を訪ねることになります。実際の牧野富太郎も22歳の時に同様の行動に出ました。東大の入試を受けたわけでもない。職員として採用したわけでもない。なぜ東大の人たちは土佐からやって来た無名の若者を受け入れたのでしょう。過去の連載記事を復刻しました。

土佐からの珍しい男 『淋しいひまもない 生誕150年 牧野富太郎を歩く』(25)

小石川植物園にある洋館。1876(明治9)年に東大本校に建築されていたものが後に移築された(東京都文京区白山)

小石川植物園にある洋館。1876(明治9)年に東大本校に建築されていたものが後に移築された(東京都文京区白山)

 東京から帰って植物学者を志す決意を固めた牧野富太郎は、幡多への1カ月に及ぶ旅など、県内各地で精力的に植物採集をする。

 そして、初の上京から3年後、再び東京に旅立つ。22歳になっていた。東京大学の植物学教室を訪ねることが大きな目的だった。
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 牧野は自叙伝に書いている。

 〈東京の大学の植物学教室は当時俗に青長屋といわれていた。植物学教室には、松村任三・矢田部良吉・大久保三郎の三人の先生がいた。この先生等は四国の山奥からえらく植物に熱心な男が出て来たというわけで、非常に私を歓迎してくれた。私の土佐の植物の話等は、皆に面白く思われたようだ。それで私には教室の本を見てもよい、植物の標本も見てよろしいというわけで、なかなか厚遇を受けた。私は暇があると植物学教室に行き、お陰で大分知識を得た〉

 牧野が植物学教室を訪ねたのは1884(明治17)年。当時の東京大学は今の千代田区一ツ橋にあった。木造2階建ての白ペンキ塗りの本館に、理学部の植物学教室はあった。

 〈私は教室の先生達とも親しく行き来し、松村任三・石川千代松さんなどは、私の下宿を訪ねてくれたし、私も松村・大久保両氏と共に矢田部さんの自宅に招かれて御馳走(ごちそう)にあずかったこともあった〉

 こうして日本の最高学府に自由に出入りすることができるようになったばかりでなく、非常に親しく交際するようにもなった。
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 上村登の評伝「花と恋して」では、同じ場面が以下のように描写される。

 〈艶(つや)のよい黒髪を蓬々(ほうほう)と伸ばし、袴(はかま)をはいた和服姿で、たくさんの標本や写生図やノートなど、豊富な資料を携えて土佐の田舎から出て来た牧野青年に、矢田部教授をはじめ教室員一同は非常な関心を持った。『土佐から珍しい男が来た』というので大いに歓迎された。そして毎日下宿から教室に出て来る熱心さと、話の中にさえ植物学に対する驚くべき卓見と異様な情熱を示すこの牧野青年に、矢田部博士も大いに心を動かされた。(中略)そのころ新進の植物学者として名の高かった矢田部教授から、思いがけない便宜を与えられて彼は狂喜した〉

 牧野は、東京大学の入学試験に合格したわけでもない。職員として採用されたわけでもない。それなのに東大の研究室に出入りするようになる。

 まだまだ寛容の時代であったのだろう。明治初期、学者たちの学問への澄み切った精神も健在であった。
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 主任教授だった矢田部良吉は、中浜万次郎(ジョン万次郎)らに英語を学び、1870年に渡米。官費留学生として米コーネル大学で植物学を修めた。1876年に帰国し、翌年、東京大学の発足と同時に教授に就いていた。土佐の漁師であった万次郎に教えを受けたこともあったから、牧野の出自にも興味や親近感があったのではないか。
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 2度目の上京の際、牧野は東京に下宿を構えた。そこに植物学教室の学生たちも出入りした。

 〈私の部屋は採集した植物や、新聞紙や、泥などでいつも散らかっていたので、牧野の部屋は狸(たぬき)巣のようだとよくいわれたものである〉(自叙伝)

 それからの4年間、東京と佐川を行き来する暮らしが始まる。

 〈東京の生活が飽きると、私は郷里へ帰り、郷里の生活が退屈になると、また東京へ出るという具合に、私は郷里と東京との間を、大体一年毎(ごと)に往復した〉(同)  (2013年1月20日付、社会部・竹内一)

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