2023.05.09 08:00
小社会 咸臨丸と万次郎
前の男性が「咸臨丸(かんりんまる)とジョン万次郎」のパネル解説に見入っていた。へえ? という顔つき。日本初の太平洋横断を果たす軍艦。その事実上の指揮者が万次郎だったと知れば、確かに驚くかもしれない。同乗の米国人、ブルック海軍大尉の「咸臨丸日記」の公開は渡航から約100年後。1956年のことだ。
―外洋に出ると大嵐。艦長の勝海舟も、他の日本人も船酔いで動けず、操船したのは米国人。日本人は経験が浅く、帆をたためず、当直体制もない。
万次郎は33歳。日本人が総倒れでもデッキで風を読み、天候を気遣い、船の位置を推計してブルックに知らせる。咸臨丸の体制の改革も思案する。同じ思いのブルックは「万次郎を助けるのだ」と誓う。
月明かりで器用に操船する万次郎にも感嘆する。ブルックは彼を再三描写し、愛着をあふれさす。14歳で漂流し、米国の捕鯨船に救われ、世界の海を巡った波乱の半生の聞き書きも日記に残した。
1860年5月、咸臨丸は帰国する。勝海舟はのちに「おれが乗って、外国人の手は少しも借らないで亜米利加(アメリカ)へ行った」と語る。日本人のみによる偉業だったと福沢諭吉も記す。無名の米国人たちと、遠洋船と英語のプロ、万次郎の存在と活躍があったことは、知る人ぞ知る。