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2023.05.02 10:12

【復刻】牧野富太郎「政治」と決別する 連載「淋しいひまもない―生誕150年牧野富太郎を歩く』(24)

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自由民権運動に関わっていた頃の牧野富太郎=中央。佐川の青年たちとりりしい表情で写っている。右端は佐川町の青山文庫の前身を創設した川田豊太郎(川田隆生さん所蔵、高知県立牧野植物園提供)

自由民権運動に関わっていた頃の牧野富太郎=中央。佐川の青年たちとりりしい表情で写っている。右端は佐川町の青山文庫の前身を創設した川田豊太郎(川田隆生さん所蔵、高知県立牧野植物園提供)

朝ドラ「らんまん」の万太郎が自由民権運動に関わっています。牧野富太郎は若いころ、運動に身を投じていた時期がありました。過去の連載記事を復刻しました。

 「牧野富太郎」と「政治」は、程遠いイメージがあるかもしれないが、密接に関わっていた時期があった。

 19歳の牧野が初めて上京した1881(明治14)年、自由民権運動はその運動が結実する時期を迎えていた。以下、概略を記す。
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 1873年、西郷隆盛と板垣退助らは朝鮮の排日的な姿勢を名目に、これを討つ「征韓論」を主張。しかし、欧米視察から帰国した木戸孝允、大久保利通らは内政の優先を唱(とな)えて、退ける。

 政権から下野した板垣は翌年、国民が選んだ議員によって運営される「民撰議院設立建白書」を政府に提出。国会開設を求める運動が始まり、自由民権運動が起きる。それは、薩長の要人によって進められる藩閥政治への不満も相まって、全国に広がった。

 そして、牧野が初上京した年、板垣は日本初の政党「自由党」を結成。10年後の国会開設を政府に約束させる。
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 この当時、牧野青年の日々は植物探究にのみあったわけではない。イギリスの哲学・社会学者のスペンサーらの政治に関する書物を読み、政治集会にも熱心に参加していた。

 牧野は自叙伝に書く。

 〈当時は自由党が盛んで、『自由は土佐の山間から出る』とまでいわれ、土佐の人々は大いに気勢を挙げていた。本尊は板垣退助で、土佐一国は自由党の国であった。従って私の故郷も全村こぞって自由党員であり、私も熱心な自由党の一員であった〉
 〈人間は自由で、平等の権利を持つべきであるという主張の下に、日本の政府も自由を尊重する政府でなければいかん。圧制を行う政府は、打倒せねばならんというわけで、そこの村、ここの村で盛んに自由党の懇親会をやり大いに気勢を挙げた〉
 しかし、もちろん政治の道に進んだわけでない。

 〈後に私は何も政治で身を立てるわけではないから、学問に専心し国に報ずるのが私の使命であると考え、自由党から退くことになった。自由党の人々も私の考えを諒(りょう)とし脱退を許してくれた〉

 その脱退には、派手な演出も凝らされた。

 越知の仁淀川の河原で開かれていた自由党の大懇親会に、牧野は仲間たちと特注した大きな旗を掲げて現れた。化け物たちが火に巻かれて逃げて行くさまを描いた旗。牧野は仲間たちと脱退の演説をぶち、大声で歌いながら会場を後にしたという。

 そのような明治初期の情景を思い浮かべる時、何かうらやましいような気持ちにもなる。その河原には、変革の熱気や興奮、そしてきっと楽しさもあったのだろう。今の政治や政党に失われて久しいものばかりである。
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 にぎやかな脱退劇は、牧野の固い決意の表れでもあったろう。

 東京から2カ月余りして帰郷した後、牧野が精力的に植物を採集した記録が残っている。

 朝倉村(高知市)、桑田山(須崎市)、横倉山(越知町)、久礼、窪川、佐賀、有岡(四万十市)、沖ノ島(宿毛市)、柏島(大月町)……。

 佐川の実家をほとんど留守にして、植物採集の旅が続いた。(2013年1月19日付、社会部・竹内一)

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