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2023.05.04 08:30

自宅の門の前に爆弾、疎開を決意 「シン・マキノ伝」=第6部=【68】 田中純子(牧野記念庭園学芸員)

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池長植物研究所にて(前列中央が牧野富太郎、その右側が石井勇義、個人蔵)

池長植物研究所にて(前列中央が牧野富太郎、その右側が石井勇義、個人蔵)


 満州から戻り神戸に着いた翌日つまり昭和16(1941)年6月16日に、牧野は次のような手紙を石井勇義宛てに送った。それによれば、「彼の池長氏標品問題、本日思いがけなく突然同氏西村旅館へ相見え円満に話合いが出来ましたので一先ず御助成を願う必要が無くなりました。就きましては御多忙中にも有之西下御見合せ下されまして宜敷く存じます」と記される。これにより、池長問題は解決し牧野が収集した標本は牧野の暮らす大泉に戻ることになる。日記には、19日に大阪毎日新聞社社会部の人と会い「池長標品」の件を話したとあることから、問題の決着を報告したのであろう。21日に石井「来着」とある。そして8月15日から牧野は石井とともに神戸に滞在し、池長と上記の新聞社を訪ね、17日には「石井氏と湊川駅を訪い輸送ノ事をタノム」とある。そして翌18日から21日まで会下山の正元館にて標本などの整理し荷作りを行った。石井の他に、神戸の山鳥吉五郎、川崎正悦たちも整理を手伝いに来ている。ここに掲載する写真は、その時の写真と思われる。牧野と石井のおそろいの下着姿が印象に残る。

 長年の懸案であった標本が無事に大泉の自宅に返却されたが、30万点と言われる標本を置く場所はどうしたのであろうか。それは、華道家・安達潮花の寄付により「牧野植物標品館」が邸内に建てられたのであった。日記には、11月6日に石井と「池袋駅内運輸」に面会し荷物の運搬を依頼したとあるので、この頃に届いたのであろう。戻ってきた標本を背にして標品館内に立つ牧野の写真もある。無事に「わが子」が戻ってきた喜びはさぞやひとしおであったろう。

 さて、牧野はこの年満州から帰宅すると間もなく、…

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