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2023.04.25 17:25

【復刻】牧野博士と寿衛、恋する2人の「壁」 連載「淋しいひまもない―生誕150年牧野富太郎を歩く」(42) 

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若き日の牧野富太郎と寿衛(高知県立牧野植物園所蔵)

若き日の牧野富太郎と寿衛(高知県立牧野植物園所蔵)

牧野富太郎と寿衛が結婚に至るまでは、さまざまな事情がありました。過去の連載記事を復刻しました。

 東京の小さな菓子屋で、親しく話を交わすようになった2人は、互いの好意を確かめ合った。しかし、恋する2人の間には障壁があった。

 牧野富太郎には、故郷の佐川に残している「妻」というべき存在の女性がいた。

 その「妻」の名前は、猶(なお)という。牧野とは親戚関係で、幼いころから親しくしていた。牧野よりは年下であったらしい。

 牧野は3歳で父、5歳で母を亡くした。父母に代わって一人息子の牧野を育てたのは、祖母の浪子だった。造り酒屋を営む生家の「岸屋」を継ぐのは、いわば牧野の宿命であり、それを浪子も強く願った。しかし牧野は、それにあらがって植物学者を目指す。

 猶といつ結婚したのか詳しい記録はないが、19歳で博覧会の見学と研究者との出会いを求めて初めて上京し、それから帰郷した20歳前後のことだったようだ。結婚は牧野の妥協の産物であった。祖母の勧める通りに猶と結婚するから、東京で植物学を学ぶことを許してほしい、と。

 師範学校でしっかりとした教育も受けた猶は、岸屋の仕事も手伝っていたという。牧野と猶の結婚は、祖母ばかりでなく、周囲もそうなるものと考えていた。

 牧野自身は、この最初の結婚と妻について、口を閉ざしている。「自叙伝」にも記述はない。

 大原富枝著「草を褥(しとね)に 小説牧野富太郎」からの引用である。

 〈富太郎は念願の東京行を果して来た。思いの丈のことはすべて果して来た。ここらで岸屋の後嗣(あとつぎ)という責任も果たすべきである、と浪子が考えたのも当然であった。憧れの東京行という大きな希望のかげに隠れて明(あか)らさまに見えなかった結婚が、いま正面切って彼の前に立っていた。それは唯(ただ)一つの祖母への恩返しの孝行だ、えいっ! と富太郎は初めから浮立つ思いの何一つなかったこの縁談に思い切りをつけた〉

     □

 1887(明治20)年、祖母の浪子が亡くなった。

 牧野は25歳で、日本初の植物学会誌である「植物学雑誌」を企画、出版するなど、目覚ましい活躍を始めたころだった。

 そして私生活でも寿衛(すえ)と出会って、恋に落ちた。どうやら猶との結婚は、牧野にとって心浮き立つものではなかった。大原の小説は、その辺りのことをこんなふうに書いている。

 〈多分祖母にもよく仕え、世間ともうまく事を処してゆくだろう。唯一つ、彼女が結婚の相手として、男の心をときめかせるもののない娘であることは、富太郎にとって不幸であった〉

 育ての親でもあった祖母・浪子の死を、牧野は悲しんだであろう。しかし祖母の死によって、牧野の「重し」となっていたものが、外れた。

 祖母の死の翌年、牧野は東京の根岸に寿衛との所帯を構える。それまでは東京と佐川を度々往復するという生活だったが、ここから東京に定住することになる。

     □

 祖母の死から4年後の1891年、牧野は帰高した。

 岸屋の財産整理が目的だった。このころ、その経営は立ち行かなくなっていた。牧野は猶に宛てた手紙で送金を頼むが、それができなくなっていた。財産整理をするために帰郷を懇願する猶の手紙も残っている。

 猶との関係はどうなったか。牧野は岸屋の番頭だった井上和之助と猶を結婚させて、この夫婦に岸屋を与えることにしたという(元淑徳短期大学教授、渋谷章著「牧野富太郎」より)。

 この辺りの事情も、牧野自身は書き残していない。第4部でも紹介したが、財産整理のために帰高しながら、一方で西洋音楽の演奏会を開くなどして〈明治二十五年は高知で音楽のために狂奔しているうちに夢のように過ぎてしまった〉と自叙伝につづるのだ。

 これも牧野のチャーミングなところ、とは当時の猶さん、寿衛さんの気持ちをくみ取れば、言えないのだが…。(2013年3月6日付、社会部・竹内一)

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