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2023.03.14 08:30

牧野日本植物図鑑刊行㊤「博士、缶詰めになる」シン・マキノ伝【59】=第5部= 田中純子(牧野記念庭園学芸員)

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昭和27年、銀座にて会食。前列左より2番目が三宅驥一、3番目が牧野富太郎、4番目が福田良太郎、後列左より2番目が向坂道治(個人蔵)

昭和27年、銀座にて会食。前列左より2番目が三宅驥一、3番目が牧野富太郎、4番目が福田良太郎、後列左より2番目が向坂道治(個人蔵)



 本記事では、牧野の植物図鑑編さんを支えた向坂道治(1895~1979年)*の「牧野博士の生活と出版」(「出版ニュース」8月下旬号、1956年)を参考にして「牧野日本植物図鑑」の前段階として「日本植物図鑑」の出版に至る経緯をたどってみようと思う。向坂のこの記事は、「日本植物図鑑」に始まり「牧野日本植物図鑑」初版の完成を経てその増補版が出版されるまでの足かけ33年の道のりを記録したものである。

 前回述べた「植物図鑑」は初版の刊行後版を重ねたが、5版からは発行所の参文舎より貸借の抵当として出版権が北隆館の手に移り、同社からの出版となった。ところが、大正時代になって雑誌「科学知識」に広告を出したところ、その出版元である科学知識普及会に所属していた三宅驥一(きいち)が、その不備や誤りを指摘して改訂の必要があることを北隆館に注意した。そこで福田が、「名実ともにそろった牧野先生の植物図鑑」にしてほしいと三宅に頼み、三宅は懇意にしていた牧野に図鑑の改訂を勧めた。大正11年の暮れであった。三宅は、すでに35回目の記事に登場したマキノゴケの命名者で、当時東京帝国大学農学部の助教授であった。

 引き受けたものの牧野は、植物採集に出かけ押し葉作りに忙しく、原稿は進まない。これではいつになったらできるのか分からないので、三宅は一計を案じた。すなわち、牧野を大正12年夏に箱根の蔦屋旅館に、冬に熱海の露木旅館に、翌夏は日光の板屋旅館に「所謂カンヅメにして植物図鑑に専心させた」と…

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