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2023.03.12 08:30

「サラサラと風にそよぐスエコザサ」 シン・マキノ伝【57】=第5部= 田中純子(牧野記念庭園学芸員)

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東京・練馬区立牧野記念庭園内にある牧野富太郎博士の胸像とスエコザサ(練馬区立牧野記念庭園提供)

東京・練馬区立牧野記念庭園内にある牧野富太郎博士の胸像とスエコザサ(練馬区立牧野記念庭園提供)



 関東大震災が起きてから2年余り経った大正15(1926)年5月、東京の郊外に牧野家は渋谷から引っ越した。転居先は、当時の東京府北豊島郡大泉村上土支田537、現在の東京都練馬区東大泉6丁目であり、練馬区立牧野記念庭園の所在地である。

 当時はまだ武蔵野の面影が残る雑木林の真ん中に一軒家が建てられた。初めての持ち家であり、ここが牧野にとって終(つい)の棲家(すみか)となる。この場所に居を構えた経緯は、牧野にここを紹介する人があったからである。すなわち「大泉農業協同組合40年史」(1990年刊)によれば、若い頃に富太郎の書生をしていた大泉村役場の書記・芹沢薫一郎と、植物好きの同じく収入役・渡辺徳右衛門の力添えによるということである。牧野は、引っ越す以前から芹沢の案内で大泉に来てその近辺を採集したことがある。こうして住む土地が決まり、次に牧野の妻・寿衛(すえ)が家を建てる計画を練り、さらに将来はこの家の標本館を中心にして植物園をこしらえてみせようという広大な夢を描いたという。

 寿衛は、都会では火事が多く、牧野が苦労して採集した植物標本がいつ灰となってしまうか分からない、絶対に火事の危険性のない所がよいと考えてのことであった。牧野家の新居は2階建てであるが、2階は階下の玄関などのスペースの上にあり、2階が牧野の書斎として使用された。書斎には、牧野が所蔵した書籍などがうず高く積み上げられていたため、玄関に次第に重みがかかり、ゆがみが生じたようである。やがて牧野の書斎は1階に移った。

 こうして新しい生活が始まったが、それを楽しむ間もなく、悲しい出来事が起こった。それは寿衛の具合が思わしくないことであった。…

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