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2023.03.11 08:30

シン・マキノ伝第5部スタート!「関東大震災を体感する」【56】田中純子(牧野記念庭園学芸員)

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関東大震災を報じる高知新聞号外(大正12年9月2日付)

関東大震災を報じる高知新聞号外(大正12年9月2日付)



 大正12(1923)年9月1日、東京を激震が襲った。関東大震災である。その時、牧野は渋谷の自宅にいた。暑かったので猿股一つで標本を調べていた牧野は、座って揺れ具合を見ていたが、隣の家の石垣が崩れてきたのを見て、家がつぶれては大変と思い庭に出て、樹木につかまっていた。つかまっている時間はそんなに長くはなく、揺れは収まった。揺れている間は八畳座敷の中央に座って、揺れ具合がどのようなものか味わっていた。その時、家のギシギシと動く音に気を取られて、体に感じた揺れ方をはっきり記憶していない。そう自叙伝で述べている。牧野は、地面が左右に急激に揺れた、その揺れ方をしっかりと体得したかったのにそれをはっきりと覚えていないのが残念でたまらない、という。幸いに、家は多少の瓦が落ちた程度で済み、家族も無事であった。

 地震と言えば、高知出身で著名な物理学者・寺田寅彦(1878~1935年)も関東大震災に関する著書がある。「震災日記より」(「地震雑感/津波と人間-寺田寅彦随筆選集」中央公論新社、2011年所収)には、寺田が上野の二科会展を見た後、喫茶店にいた時に地震が起き、建物での揺れ具合やその後の状況が克明に記録されている。また、「天災は忘れた頃にやって来る」という寺田の名言がよく知られるが、寺田の旧宅跡にある記念碑には「寺田寅彦先生邸址」および「天災は忘れられたる頃来る」という言葉が刻まれ、さらに「牧野富太郎書」とある。牧野が関わっていたのである。

関東大震災の年に撮影された牧野富太郎=左端=の写真。中央はオーストリアの植物学者モーリッシ(高知県立牧野植物園所蔵)

関東大震災の年に撮影された牧野富太郎=左端=の写真。中央はオーストリアの植物学者モーリッシ(高知県立牧野植物園所蔵)

 牧野は、もともと天変地異に非常に興味を持っていたので、これ以降、もう一度地震の揺れ加減を体験したいと思うようになった。また、火山の爆発にも関心があり、自叙伝に載る「富士山の美容を整える」や「富士山の大爆発」などを読むと、牧野の奇想天外なアイデアにびっくりする。太平洋戦争後刊行した「牧野植物混混録」第二号(1947年)では、「火山を半分に縦割りにして見たい」という見出しの記事が掲載される。それによれば、山を半分に割ってその半分の岩塊を除いて山の断面を見たい、それには大きい山ではなくなるべく小さい山の方がよい、候補となるのは伊豆の小室山がちょうど手ごろである、休火山なのでなおさら都合がよいと牧野は考えた。

 この考えは、元火山の断面を見れば、山の成り立ち、組織、年代などが判明し諸科学にとって好資料を提供することになるからということであった。同記事には、昭和12年1月12日に伊豆の小室山を有望であると眺めている牧野の写真が掲載される(日記にはこの日小室山に行った記録がある)。小室山に行ってこの着想を得たのか、この着想のためにそこに行ったのか分からないが、この記事は、もとは昭和12(1937)年1月の「科学知識」に発表したものである。

 さて地震が起きた時、牧野家は渋谷に住んでいた。大正8年2月
高知県立牧野植物園の牧野富太郎生誕160年特別企画展「牧野富太郎展~博士の横顔~」の解説パネル(提供:高知県立牧野植物園)

高知県立牧野植物園の牧野富太郎生誕160年特別企画展「牧野富太郎展~博士の横顔~」の解説パネル(提供:高知県立牧野植物園)

に、小石川区戸崎町(現東京都文京区)から渋谷町中渋谷(現東京都渋谷区)に転居した。それまで、東京帝国大学近くを何度も引っ越しを繰り返していた。その訳は家賃が払えず借金がかさんだことによる。家賃が滞るとその果てに追い出され、引っ越した家に落ち着くことはなかった。牧野の引っ越しは知人の間で有名になったという。また、執達吏による家財の差し押さえも経験した。渋谷でもその後、大泉に引っ越すまで数回転居を経験している*。

 渋谷への転居は、池長植物研究所の開所式が行われたのち「池長問題」が起きるのと同年であった。おそらく渋谷に引っ越してからのことであろう、牧野の妻・寿衛(すえ)は、家族を抱えて生活していくために待合(まちあい)を営業すると決断した。このことについて自叙伝によれば、寿衛が3円の資金で渋谷の荒木山に小さな一軒の家を借り、実家の別姓にちなんで待合の名を「いまむら」としてはじめた。この経営がうまくいって生活の方もやや安定したところが、長くは続かず貸し倒れになって閉店したということである。待合は、明治から昭和期にかけて待ち合わせや会合のために場を提供する貸席業で、客の遊興や飲食を主な目的としていた。そのため、大学の先生であるのに待合をするとはけしからんと大学方面で悪口を言われることも多々あったが、牧野の家族に疚(やま)しい気持ちはなく、寿衛が独力で生活のために行ったことで、家族とは別居しており、大学へ迷惑をかけたことはないと牧野は自叙伝で述べている。待合の経営ということから牧野が苦境に立たされたわけであるが、牧野のことをよく了解し同情してくれた人物がいた。その人物が、当時の東京帝国大学理学部長であった五島清太郎(1867~1935年)である。

 五島と牧野の関わりについては、牧野が自叙伝に上記のように書いているのみで実際どのような交流があったのかは今までほとんど言及されてこなかったように思われる。そこで五島のことを少し調べてみようと考えた。生まれは現在の山口県萩。帝国大学理科大学動物学科を卒業後、アメリカ留学を経て第一高等学校の教授となり、明治42(1909)年東京帝国大学教授に就任。大正9(1920)年同大理学部長となる。寄生虫、腔腸(こうちょう)動物、棘皮(きょくひ)動物を研究した**。牧野といつ知り合ったかは明らかではないが、日記に何度か五島の名が登場する。最初の記述は、大正3年11月25日に巣鴨の五島を訪ねたことで、同11年、12年頃大学生を連れて採集に行くときに五島が参加している。昭和10年7月20日に五島の逝去を記し、23日告別式に臨んだ。同年10月には五島の遺族より書面が届き、五島の妻が西巣鴨にある庭の広い家に残ることになったと書面に書かれてあったという。五島は、明治36年に本郷曙町から巣鴨に移り住んで、妻が勤める明治女学校の敷地内に家を建て、400坪の庭は五島が思うがまま自然の造庭をしたと五島茂は書いている**。この庭が牧野との接点ではないかと想像したが、練馬区立牧野記念庭園には五島から牧野に宛てた書簡があり、その一つの住所は本郷曙町であった。明治36年以前からの知り合いであったようである。五島も植物が好きで採集会に参加し、庭に植える植物を収集したり牧野に助言を求めたりしたのかもしれない。(田中純子・練馬区立牧野記念庭園学芸員)

*高知県立牧野植物園の牧野富太郎生誕160年特別企画展「牧野富太郎展~博士の横顔~」(会期:2022年4月24日~6月26日)で展示された解説パネルの情報に基づく(図)。なお、牧野の日記(行動録)には大正8年2月に「中渋谷三八二へ転居」とあり、10月には三六二と、12月には三五二と田代善太郎宛書簡に記された住所の番地が記録されるが、同年2月19日付の宮部金吾に宛てた封筒の住所は、「東京府下、渋谷町中渋谷三五二番地」であり、手紙には肩書きのところへ転居した旨が書かれているので、渋谷に移った当初から「三五二番地」に暮らしていた可能性があり、今後の検討を要する。
**五島茂「岳父五島清太郎のこと」(『採集と飼育』45-10、1983年)を参照。
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 長期連載企画「シン・マキノ伝」は、生誕160年を今年迎えた高知県佐川町出身の世界的植物学者・牧野富太郎の生涯をたどる最新の評伝です。筆者は東京の練馬区立牧野記念庭園の田中純子・学芸員です。同園は牧野が晩年を過ごした自宅と庭のある地にあり、その業績を顕彰する記念館と庭園が整備されています。田中学芸員は長らく牧野に関する史料の発掘や調査を続けている牧野富太郎研究の第一人者です。その植物全般におよぶ膨大な知識の集積、目を見張る精緻な植物図の作成、日本全国各地の山野を歩き回ったフィールド・ワーク、およそ40万枚もの植物標本の収集、そしてその破天荒ともいえる生き方……。新たに見つかった史料や新しい視点で田中学芸員が牧野富太郎の実像を浮き彫りにする最新の評伝を本紙ウェブに書き下ろします。牧野博士をモデルにしたNHK連続テレビ小説「らんまん」が始まる来年春ごろまで連載する予定です。ご期待ください。
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 たなか・じゅんこ 1964年、東京生まれ。上智大学大学院修士課程卒業(歴史学専攻)。中高等学校で教師を勤めた後、東京国立博物館で江戸から明治時代にかけての博物学的資料の整理調査に当たる。2010年、リニューアルオープンした練馬区立牧野記念庭園記念館の学芸員となり現在に至る。植物学者・牧野富太郎をはじめ植物と関わったさまざまな人たちの展示を手掛ける。

※シン・マキノ伝の第1部から第4部は下記の「一覧」をクリックいただくとご覧になれます※

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