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2023.01.21 08:30

「東京全市を桜の花で埋めよ」 シン・マキノ伝【47】=第4部= 田中純子(牧野記念庭園学芸員)

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ナラヤエザクラ(牧野富太郎指導、山田壽雄写生、小柴英製版印刷、東京帝室博物館発行、個人蔵)

ナラヤエザクラ(牧野富太郎指導、山田壽雄写生、小柴英製版印刷、東京帝室博物館発行、個人蔵)


 牧野富太郎は、東京帝国大学理科大学の講師として勤務する傍ら、東京帝室博物館や西ヶ原農事試験場などで仕事をしていた。ことに東京帝室博物館に関しては、そこでサクラの図譜を制作したことがあるという牧野の回想談が伝わる。しかしながら、その図譜が現存するのか、どこにあるのかなど分からなかったが、調査を試みると同館の後身である東京国立博物館にサクラの図が所蔵されていることが明らかになった。今回は、幻のサクラの図譜を中心に、東京帝室博物館時代の牧野によるサクラの調査を話題とする。

 東京帝室博物館の前身は、明治22(1889)年に発足した帝国博物館であるが、その歴史は、明治4年に文部省博物局が設置され、翌5年に同局による最初の「博覧会」として湯島聖堂博覧会が開かれたことにさかのぼる。その後博物館は、東京博覧会事務局、内務省博物館、農商務省と所管を替え、明治19年に博物局は廃止された。この博物局および博物館の主な仕事は、各地に産する自然物の収集と展示・出版などを通じての啓蒙活動であり、当初から中心的な存在であったのが田中芳男である。牧野が明治14年に初上京した時、博物局を訪ね田中に面会している。同19年から博物館は宮内省に属することになり、帝国博物館には天産部(のち天産課)*が置かれた。

 牧野は、明治40年10月東京帝室博物館天産部の嘱託として植物分類調査事務の任に就いた。大正2(1913)年および同4年の4月に、埼玉県足立郡江北村の荒川堤で八重桜の調査を行い、採集したさまざまな栽培品種の標本を作製し同館に収蔵した。同3年には標本整理の成果をまとめ、根本莞爾(1860~1936年)と共編で「東京帝室博物館 日本植物乾腊(かんせき)標本目録」を出版した。リスト化された標本は、自生品や栽培品、移植品からなり、植物の和名・学名とともに採集地名も記入される。サクラの標本では博物館や荒川堤で採ったものが多く挙げられている。

 牧野は、博物館に勤務のため通うようになって、新たなサクラと出合う機会に恵まれた。それはオオヤマザクラとカンザクラである。前者については、明治44年に出版された「大日本植物志」第1巻第4集に、第15図版として山田壽雄との共作であるオオヤマザクラの図と文章が掲載される。その図は、博物館内にあった2本の木をそれぞれ描いたもので、2本とも第2回内国勧業博覧会のために北海道から送られたさまざまな樹木の一つであった。不幸なことにこれら2本のオオヤマザクラは、その後移植され枯れ死にしてしまったという記述が「公園ニ植エンガ為メニおほやまざくら苗木ノ寄附」(「植物研究雑誌」第4巻第3号、1927年)に見いだされた。東京で見ることのほとんどないオオヤマザクラが絶えたことを残念に思い、牧野は大正8年にオオヤマザクラを北海道から200本取り寄せ、そのうち100本(数えて見ると99本だったという)を東京帝室博物館に献納した。オオヤマザクラの手配に関しては、北海道の宮部金吾に、100本の苗木がいかほどになるかを調べて教えてほしいと頼む大正8年2月19日付の手紙が残っているので宮部がこの手配に関わったと想像される。また、当時東京帝室博物館総長であった森鴎外(1862~1922年)よりこの献納に対する感謝状を牧野はもらった。

 カンザクラについては、その老樹が同館にあって、それから接ぎ枝を採り台木に接いで増やそうとしたこともあった。牧野は上野公園にいろいろな種類のサクラを植えて咲く時期のズレや花弁の色の違いを、公園を訪れる人々が楽しめるようにしたいと考えていたのである。また、「東京全市を桜の花で埋めよ」(「続植物記」櫻井書店、1944年所収)という記事では、東京市で何千万本の苗木を用意して東京の都を桜の花で埋めねばならないと言い、「花の雲で東京を埋めりゃよい」と主張した。

 さて、大正7年3月に書かれた「桜花図譜編纂大綱」の原稿用紙が、練馬区立牧野記念庭園で、牧野のご遺族より預かりしている資料中に見つかった。また、先述した回想談は、牧野が米寿を迎えた明治24年に「植物研究雑誌」で牧野博士米寿記念特集号が組まれ、その中に掲載された「牧野先生一夕話Ⅰ~Ⅹ」というインタビュー記事の一つで、その見出しは「Ⅴ 博物館で出版した“桜の図譜”について」であった。この記事において、東京帝室博物館で桜花図譜を制作しそのうち3図を印刷したが後が続かないで、「国立博物館」に保管されたことを牧野が語っている。編纂(さん)大綱を記した原稿と牧野が桜花図譜を作ったという談話を手掛かりにどこかに必ずサクラの図が現存していると信じて調査したところ、東京国立博物館に16点のサクラの図が保管されていることが確認され、それとともに3点の印刷図と浄書された「桜花図譜編纂大綱」も見つかった(したがって、記念庭園にある原稿用紙は下書きであったことが判明した)。16点の図は印刷図ではなく手書きの着色図で、牧野の指導の下、山田壽雄が描画したものである。どの図も牧野が良い枝ぶりのサクラを選んで描かせたことを察するに値するもので、山田の着色もむらなく均一になされ美しい仕上がりの図であった。そのうちソメイヨシノ・ナラヤエザクラ・タカネザクラの3図が印刷図の原図であった。16図には牧野の自筆でサクラの名称などが記入された図もあり、印刷用のキャプションと見られる。また、別の筆跡も見られ、それは山田の書き込みと考えられる。印刷図を受け持ったのが、「大日本植物志」のホテイランを担当した小柴英である。

 編纂の大綱には、桜花図譜の目的が記される。それによれば、複数の研究者によってサクラの研究がなされて名称の混乱が生じたことから、図と文で個々のサクラの特徴を正確に伝える図譜が必要となったということである。大綱には、91種類のサクラの名称が掲げられ、随時新種があれば増やすとしている。牧野の日記を調べると、大綱を作成した年から大正10年まで、春になるとサクラの枝を探しに各地に赴き山田に枝を渡したなどの記述が見られる。同9年には、牧野は大島に行き自らオオシマザクラを写生している。また、「博物館で出版した桜の図譜中ミネザクラに就て(牧野先生一夕話IX)」では、富士山から持ち帰ったミネザクラの蕾(つぼみ)が東京の暖かさで開き始めたため状態が変わらないよう氷を立てて山田に描かせたというエピソードが語られた。

 その後日記にはサクラの図譜に関わる記述が見られなくなり、桜花図譜の編纂を承認してくれたと思われる総長の森が大正11年に亡くなり、翌12年に関東大震災が起る。なんとか出版したいと考えていた牧野は、大正14年8月に解嘱となっていたが博物館に頼んでソメイヨシノとミネザクラを同年10月ごろに、ナラヤエザクラ(図47)を同15年5月ごろに印刷に回した。しかしながら、それらが一般に広く知られることはなかった。(田中純子・練馬区立牧野記念庭園学芸員)
*人工物に対して自然科学系の物品を扱う部署
**宮城県の出身。東京師範学校を卒業後、長野・福島師範学校へ。退職後明治43年から東京帝室博物館天産部植物区事務嘱託として勤務した。押し葉標本の収集作製を担当し、解嘱後東京博物館(後東京科学博物館、現国立科学博物館)で、天産部から譲渡された標本の整理に従事し、在職中に逝去。主な著書は、牧野との共著で「日本植物総覧」(日本植物総覧刊行会、1925年)、単著で「日本植物総覧補遺」(春陽堂、1936年)。
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 長期連載企画「シン・マキノ伝」は、生誕160年を今年迎えた高知県佐川町出身の世界的植物学者・牧野富太郎の生涯をたどる最新の評伝です。筆者は東京の練馬区立牧野記念庭園の田中純子・学芸員です。同園は牧野が晩年を過ごした自宅と庭のある地にあり、その業績を顕彰する記念館と庭園が整備されています。田中学芸員は長らく牧野に関する史料の発掘や調査を続けている牧野富太郎研究の第一人者です。その植物全般におよぶ膨大な知識の集積、目を見張る精緻な植物図の作成、日本全国各地の山野を歩き回ったフィールド・ワーク、およそ40万枚もの植物標本の収集、そしてその破天荒ともいえる生き方……。新たに見つかった史料や新しい視点で田中学芸員が牧野富太郎の実像を浮き彫りにする最新の評伝を本紙ウェブに書き下ろします。牧野博士をモデルにしたNHK連続テレビ小説「らんまん」が始まる来年春ごろまで連載する予定です。ご期待ください。
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 たなか・じゅんこ 1964年、東京生まれ。上智大学大学院修士課程卒業(歴史学専攻)。中高等学校で教師を勤めた後、東京国立博物館で江戸から明治時代にかけての博物学的資料の整理調査に当たる。2010年、リニューアルオープンした練馬区立牧野記念庭園記念館の学芸員となり現在に至る。植物学者・牧野富太郎をはじめ植物と関わったさまざまな人たちの展示を手掛ける。

※シン・マキノ伝の第1部から第3部は下記の「一覧」をクリックいただくとご覧になれます※

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