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2023.01.20 08:30

「広がる関西人との交流」 シン・マキノ伝【46】=第4部= 田中純子(牧野記念庭園学芸員)

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比叡山でウバユリを手にして解説をする牧野富太郎(1919年夏、個人蔵)

比叡山でウバユリを手にして解説をする牧野富太郎(1919年夏、個人蔵)


 これぞまさしく牧野富太郎が採集会で指導するその様子を的確に捉えたスナップ写真であろう。ここに掲げた写真は、牧野の裏書きによれば、大正8(1919)年夏、比叡山にて、会員にウバユリを説明しているところの牧野富太郎とある。大勢の人に囲まれて、牧野が、葉が網状脈を持ち、花が押しつぶされたような左右相称の傾向を持つなどウバユリの特徴を説明しているのであろう。牧野は、ウバユリやオオウバユリが従来のユリ属ではなく別属であることに気づき、長らく欧米の学者に無視されていたCardiocrinum属を起用して新学名をつけ「植物学雑誌」(第27巻第318号、1913年)に発表した。また、「植物研究雑誌」(第8巻第7号、1929年)の「断枝片葉(其五十九)」では、ウバユリの花の数という小見出しで、ウバユリの花は肥えたものであると七つの花をつけることを大正8年8月20日に比叡山で実見したと牧野は述べている(通常は3~4個)*。したがって、写真もこの日に撮影されたものではないかと考える。写真では、おそろいと思われる夏用の帽子をかぶる人がちらほら写る。牧野はいつもの三つぞろいでなくハイカラーの白い上着を着ている。同様な装いの人が数人いる。幹事たちかもしれない。牧野がさっそうと植物の指導をしている様子が印象に残る。この採集会に関しては、牧野の日記に同月19日比叡山で1泊、20日午前中採集指導をなしたという記録がある。しかしながらその記録には「採集会会員」とあるだけで何という名称の会であったかは分からない。

 この写真の裏面には、「竹下英一氏撮影」という情報もある。この撮影者である竹下は、44回目の「池長問題」で名を挙げた人物である。竹下については関西の人で学校の教師、大阪植物同好会の幹事ということは分かっていたが、この機会にもう少し調べてみようと思った。インターネットで検索した結果、牧野が竹下に送った書簡集が出版されていることを知り、連絡を取りお願いしたところ、著者・川端一弘氏が「牧野富太郎竹下英一宛書簡」(2020年3月)という冊子を送付してくださった。

大阪道頓堀楼上の牧野富太郎ほか(1930年12月、個人蔵)

大阪道頓堀楼上の牧野富太郎ほか(1930年12月、個人蔵)

 牧野筆竹下宛の書簡類は、竹下の没後ご遺族が大阪市立自然史博物館へ寄贈されたものである。全部で130余り現存するようで、最初の書簡は大正7年9月16日消印のはがきとされ、年代不明のものもあるが、最後が昭和31(1956)年の年賀状と、同年10月9日消印の封書である。後者は次女・牧野鶴代の筆跡である。

 竹下と牧野との出会いは、牧野が池長の支援を受け神戸に行くようになってからのことで、日記には大正7年4月20日に樟蔭女学校に竹下氏を訪ねたことが記され、これが最初の出会いではないかと思う。同学校は、正式名称「樟蔭高等女学校」で、同年4月に開校したばかりの学校である。竹下は大阪府立夕陽丘高等女学校に教諭として勤めていたが、同校長の伊賀駒吉郎が樟蔭高等女学校の設立に参画したことから、樟蔭高等女学校の教師となったようである。日記の同月1日には、「樟蔭高等女学校植物乾腊(かんさく)標品ラベルの原稿記載」とある。川端氏によれば、2人が知り合うことになったのは竹下が牧野の標本を教材として購入したことがきっかけとしている。新しく設立された学校に備えるべき教材として標本が必要であると竹下が判断したのであろう。また、池長孟をはじめ阪神地方の名士数名が、植物の知識と趣味の普及を目的に毎月1回牧野を講師として野外採集を行う阪神植物研究会を立ち上げた。大正7年9月8日に第1回が六甲山で開催された。その際、入会希望者の申し込み先が、竹下方同会宛てになっている。この竹下も同一人物とみられる。

 以上のことから牧野の神戸滞在の早い段階から竹下と交流があったことが分かる。また、2人の交流から大阪植物同好会が生まれたと見られ、大正10年11月6日に第1回の採集会が春日山で行なわれて牧野が指導し、同月27日に箕面での開催があった。川端氏の調査によれば、翌大正11年5月六甲山、9月二上山などで例会があり、その後途絶えて昭和に入って再開されたということである。同会については、牧野を講師として招くと旅費・宿泊代などの費用がかさんだことから会の運営がうまくいかなくなってきた状況が、牧野の竹下宛て書簡から伺われる。牧野旧蔵の写真には、大阪植物同好会の幹事(あるいは主だったメンバー)と思われる人たちと牧野が写る写真が数枚含まれる。また、牧野の竹下宛書簡には「池長問題」に言及したものがあり、牧野を取り巻く周囲の人たちが気をもんで行動に出ようとしていた様子が伝わる。当の本人はやはり自分で解決したいと思っていたようである。

 最後に、川端氏のご指摘により気がついたのであるが、牧野はカツラキグミ**の新学名と新和名を「植物研究雑誌」(第5巻第6号、1928年)に発表した。この中に、学名Elaeagnus takeshitae Makinoのtakeshitaeは、樟蔭高等女学校の博物学教師である竹下英一を記念したものであるという記述があった。

 牧野の竹下宛て書簡は、長い期間にわたって送られた書簡で、さまざまな事柄に言及した貴重な資料である。その期間は、牧野の後半生をほぼ網羅している。筆者もほぼ同じ時期として向坂道治や石井勇義に宛てた牧野の書簡類を調査しているが、これらを年代順に整理し内容を比較したら新しい発見があるかもしれない。楽しみである。(田中純子・練馬区立牧野記念庭園学芸員)
*「新分類牧野日本植物図鑑」(北隆館、2017年)のウバユリ・オオウバユリの項を参照。
**牧野は和名の読みをローマ字で「Katsuraki-gumi」としているが、「改訂新版 日本の野生植物2」(平凡社、2016年)ではカツラギグミとされる。また、同書によれば、分布は、奈良県・大阪府・和歌山県の県境である葛城山・金剛山に極限されるとある。
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 長期連載企画「シン・マキノ伝」は、生誕160年を今年迎えた高知県佐川町出身の世界的植物学者・牧野富太郎の生涯をたどる最新の評伝です。筆者は東京の練馬区立牧野記念庭園の田中純子・学芸員です。同園は牧野が晩年を過ごした自宅と庭のある地にあり、その業績を顕彰する記念館と庭園が整備されています。田中学芸員は長らく牧野に関する史料の発掘や調査を続けている牧野富太郎研究の第一人者です。その植物全般におよぶ膨大な知識の集積、目を見張る精緻な植物図の作成、日本全国各地の山野を歩き回ったフィールド・ワーク、およそ40万枚もの植物標本の収集、そしてその破天荒ともいえる生き方……。新たに見つかった史料や新しい視点で田中学芸員が牧野富太郎の実像を浮き彫りにする最新の評伝を本紙ウェブに書き下ろします。牧野博士をモデルにしたNHK連続テレビ小説「らんまん」が始まる来年春ごろまで連載する予定です。ご期待ください。
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 たなか・じゅんこ 1964年、東京生まれ。上智大学大学院修士課程卒業(歴史学専攻)。中高等学校で教師を勤めた後、東京国立博物館で江戸から明治時代にかけての博物学的資料の整理調査に当たる。2010年、リニューアルオープンした練馬区立牧野記念庭園記念館の学芸員となり現在に至る。植物学者・牧野富太郎をはじめ植物と関わったさまざまな人たちの展示を手掛ける。

※シン・マキノ伝の第1部から第3部は下記の「一覧」をクリックいただくとご覧になれます※

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