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2023.01.19 08:30

「池長植物研究所の明暗(下)」 シン・マキノ伝【45】=第4部= 田中純子(牧野記念庭園学芸員)

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 池長が牧野の標本を京都大学に寄付するという「池長問題」の続きである。1920(大正9)年5月に池長が除隊した後、翌大正10年7月に牧野は妻と一緒に池長と面会している。牧野の日記には、同年12月に神戸で「日本植物志趣意書」を作成したことが、11年2月に「大坂植物研究所」の目的書や設計の図面などを大坂市に出したことなどが記される。この行動は、実を結ばなかったが、「池長問題」に対処するための牧野側のリアクション(つまり牧野が目指す日本植物誌の編纂や公立の研究所の設置)のように見受けられるがいかがであろうか。

 その後1929(昭和4)年までは牧野は神戸に滞在し研究所に登館しているが、池長問題は決着を見ずに2人の関係は平行線をたどり続けたようである。研究所は一般に公開されることはなかった。そして、自叙伝では、いつ頃のことかははっきりしないが(勝盛氏によれば昭和5年ごろ)、池長からの支援について、「私はここへ毎月行って面倒を見る事になってはいるが、いろいろの事情があって今は池長氏の援助は途切れ途切れになっている。」と述べられる。

 昭和5年以降は、牧野は兵庫や大阪での研究会・同好会に参加するため神戸を訪れるが、池長とはほぼ没交渉となる。池長は、この頃から南蛮美術の収集に力を入れ、豪華な図録を出版し池長美術館を公開するに至る。昭和15年のことであった。社会へ貢献したいという宿願がようやく自身の手で果たされたのである。その翌年に、30万点と言われる牧野の標本が返却されることになる。その辺りは後に取り上げることにしたい。

 池長植物研究所は、一般の利用に供せられなかった点で社会的に貢献することは叶わなかったが、勝盛氏は同研究所の果たした役割をもっと肯定的に評価すべきではないかと提言している。すなわち、牧野の標本や蔵書が散逸してしまうことを防ぐことができ、結果牧野のコレクションはまとまって後世に伝わることになった。また、牧野にとって神戸での滞在が増えたことにより、神戸や大阪で発足した植物同好会や研究会などを指導することができ、より多くの人たちとの交流がなされ、植物研究も進展した。一方、池長にとって、牧野と出会いは、牧野の横溢(おういつ)な探求心や蔵書の豊かさなどを知る貴重な機会となり、それが後の南蛮コレクションに実を結んだのであろう。池長植物研究所は2人にとって一定の役目を果たしたと言えよう。

左から牧野富太郎、松村任三、池長孟(個人蔵)

左から牧野富太郎、松村任三、池長孟(個人蔵)

 ちょっと余談である。2人が同じ目標に向かって心を一にしていた頃に撮られたのではないかと思われる写真がある。被写体の3人の内、椅子に腰掛ける中央の人物が松村任三。向かって右に池長孟、左に牧野富太郎。松村の足元には、バラの鉢植えが置かれている。撮影場所は、松村邸の前庭。今度神戸に池長植物研究所を設けますのでどうぞよろしく、という挨拶をするため2人が松村の自宅を訪問したと想像したくなるような写真である。また、牧野は研究所の開館に当たり、賛助者を募ったようである。すなわち、宮部金吾に宛てた大正7年10月20日の手紙には、池長植物研究所の準備が段々に進み、遠からず開館となるに当たり、斯学界の主な先生方に賛助員になっていただくようお願いし、山川帝大総長をはじめ多数の方の快諾を得ている、ついては、宮部にもその旨を承諾してほしいと頼み、何ら責任はなく本館の名誉のために名前を列ねるものであると説明している。

 さて、自叙伝には、新聞記事を執筆してくれた人物や池長と牧野をつなぐ役目を果たした人物の名を挙げ、世話になったとして感謝の念が記される。前者は「農学士の渡辺忠吾」である。すなわち、渡辺は、絶体絶命となって標本を西洋にでも売って一時の急を救おうと覚悟した牧野を心配して東京朝日新聞にこの窮状を書いた。そして、大阪朝日新聞にも転載され、図らずも神戸に2人の篤志家が現われ、結果、池長氏の厚意を受けることになったのである。

 渡辺は、朝日新聞に載る記事をたどって明らかになった経歴を述べると、…

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