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2022.11.19 08:30

全身全霊の大仕事「大日本植物志」シン・マキノ伝【32】=第3部= 田中純子(牧野記念庭園学芸員)

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「大日本植物志」第1巻第1集表紙(高知県立牧野植物園所蔵)

「大日本植物志」第1巻第1集表紙(高知県立牧野植物園所蔵)

 いよいよ「大日本植物志」の出版である。不遇な立場にあるからこそ、牧野にとって日本植物誌を担当し出版できることはどんなにか喜ばしく、またやりがいのある仕事であったことか。「大日本植物志」は明治33(1900)年から明治44年まで不定期に刊行された。28回目の記事で書いたように、宮部宛の手紙には予定される出版物の体裁が詳細に記してあったが、それは牧野が明治21年から自費で出版した「日本植物志図篇」の体裁と変わるものではなかった。いつ頃から「大日本植物志」というタイトルに決めて「大」にふさわしいかのように用紙のサイズを大きくしたのであろうか。それによって、「日本植物志図篇」のどちらかというと小形の草本がメインであったのと異なり、ヤマザクラやモクレイシのように樹木の一枝やサクユリのように大形の花を持つ植物を対象とすることが可能になった。その方針転換には興味が持たれるが資料がなく経緯を辿ることはできない。いずれにせよ大きさ一つを見ても分かるように、「大日本植物志」には牧野のもてるパワーとプライドのすべてが注がれたのである。自叙伝から引用しよう。

 
牧野富太郎「ヤマザクラ」第1図版(高知県立牧野植物園所蔵)

牧野富太郎「ヤマザクラ」第1図版(高知県立牧野植物園所蔵)

「私は間もなく浜尾先生の任侠により、至大の歓喜、感激、乃至決心を以て欣然(きんぜん)その著述に着手した。私はこの書物について一生を捧げるつもりでいた。そして次のような抱負を持っていた。即ち第一には日本には、これ位の仕事をする人があるぞという事、その図は極めて詳細正確で世界でもまずこれ程のものがザラにはない事、且つ図中の植物の姿はもとよりその花や果実などの解剖図も極めて精密完全に書く事、その描図の技術は極めて優秀にする事、図版の大きさを大形にする事、その植物図は悉(ことごと)く皆実物から忠実に写生する事、このようにして日本の植物を極めて精密に且つ実際と違わぬよう表わす事、まずおよそこんな抱負と目的とを以って私は該著述の仕事をはじめた」

 以上のように、牧野は全身全霊でもってこの大仕事に打ち込んでいく。

 「大日本植物志」の概観を述べよう。まずは、刊行年について第1巻第1集が明治33年、第2集が同35年、第3集が同39年、第4集が同44年となる。次に、図版数は全部で16図版、第6図版のサクユリの写真を除いて第15図版までが単色の印刷図で、第16図版のみ多色刷である。

 続いて植物の名称と種数である。巻頭を飾るのは、日本を代表するにふさわしいヤマザクラであり、続いてアズマシロガネソウ・チャルメルソウ・サクユリ・セイシカ・ヒガンバナ・ボウラン・モクレイシ・オオヤマザクラ・ホテイランの計10種が収載される。このうち数種について図解の特徴などを述べておく。ヤマザクラは、第1図版で花のついた一枝を中央に配置し、周囲を花冠や花弁・萼・雄蕊(しべ)・雌蕊などを表す部分図が埋め尽くす。続く第2図版では葉や実の形状を細部まで悉(ことごと)く描き尽くし、それぞれがどのようなつくりであるかが手に取るように示されるだけでなくサクラの1年の変化も追えるようになっている。ヤマザクラの花冠を示す図は、「牧野富太郎生誕150年」に続き今年の生誕160年の練馬区立牧野記念庭園のロゴとしても使用しているが、ほれぼれするほど美しい。やはりサクラを非常に好んだ牧野の思いが込められているのであろう。ヤマザクラの解説文中に、雲か霞か紛うほどの桜の姿はあでやかで美しく、色は優雅で、その美観はバラ科のウメ、モモ、アンズなどの植物の及ぶところではなくひときわ群を抜いていると絶賛するくだりがある。

 チャルメルソウは、現在ではシコクチャルメルソウと同定されるが、牧野の正確な図があってこそそれと判定できたと言われている。これも2図からなり、第4図版に見られる茎に生える毛の細かさは超絶で、NHKの映像で紹介されたほどである。第5図版では、不思議な形をした花の構造が示され、羽状に裂けた花弁や果実および種子の形状などはまるでミクロの世界に潜入した感があって面白い。普通ではこのような細部まで見られないのである。続くサクユリでは2図と写真1点が掲載される。サクユリの花を正面から堂々と描いた第7図版はユリのもつ気品が印象に残る。一方で裏側から見た花もあり、抜かりはない。第8図版は、食用に供される鱗茎(りんけい)がこれまた立派に、かつ克明に描かれた。図に記入された学名Lilium auratum Lindl. var. Hamaoanum Makinoは、「大日本植物志」刊行にあたりよき理解者であった大学総長の浜尾新に献呈されたものである。

 「大日本植物志」の作者について、表紙には「東京帝国大学理科大学植物学教室編纂」とあるが、10種の植物の解説は牧野によるものであり、第1から11図版(第6図版の写真を除く)と16図版は牧野単独の制作であり、第12・13・14図版のモクレイシ・第15図版のオオヤマザクラは牧野の名とともに「T.Y.」のイニシャルが記され、共作であることが分かる。自叙伝にも「後には幾枚かのその原図を写生図に巧みで、私の信任する若手の画工に手伝わした事もあった」という記述が見出される。「T.Y.」は山田壽雄のイニシャルである。山田は、牧野の指導の下に一生涯にわたり植物図の制作に携わった人物である。牧野との出会いの時期は不明であるが、高知県立牧野植物園に所蔵される山田の植物図の制作年から推測して、出会いは明治40年(1907)年以前のことと見られる。山田は今後しばしば登場することになろう。

 さらに述べると、第17図版と記されたカンツワブキの全形図の原図と、第18図版としてカンツワブキの部分図からなる印刷図(試し刷)の現存が確認された。これにより「大日本植物志」は未完であり、続きが準備され印刷の段階に進んでいたことが判明した。制作者は、牧野と山田である。ちなみに、カンツワブキは明治42年9月に牧野が屋久島でその自生を見つけたもので、新種として学名を付与した。江戸時代の「本草図譜」に描かれた図だけで知り、それまで実物を見たことがなかったと「植物学雑誌」(第24巻第277号、1910年)で述べている。

 次回は、「大日本植物志」における印刷を担った人物や牧野の印刷のこだわりについて考えてみたい。(田中純子・練馬区立牧野記念庭園学芸員)
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 長期連載企画「シン・マキノ伝」は、生誕160年を今年迎えた高知県佐川町出身の世界的植物学者・牧野富太郎の生涯をたどる最新の評伝です。筆者は東京の練馬区立牧野記念庭園の田中純子・学芸員です。同園は牧野が晩年を過ごした自宅と庭のある地にあり、その業績を顕彰する記念館と庭園が整備されています。田中学芸員は長らく牧野に関する史料の発掘や調査を続けている牧野富太郎研究の第一人者です。その植物全般におよぶ膨大な知識の集積、目を見張る精緻な植物図の作成、日本全国各地の山野を歩き回ったフィールド・ワーク、およそ40万枚もの植物標本の収集、そしてその破天荒ともいえる生き方……。新たに見つかった史料や新しい視点で田中学芸員が牧野富太郎の実像を浮き彫りにする最新の評伝を本紙ウェブに書き下ろします。牧野博士をモデルにしたNHK連続テレビ小説「らんまん」が始まる来年春ごろまで連載する予定です。ご期待ください。
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 たなか・じゅんこ 1964年、東京生まれ。上智大学大学院修士課程卒業(歴史学専攻)。中高等学校で教師を勤めた後、東京国立博物館で江戸から明治時代にかけての博物学的資料の整理調査に当たる。2010年、リニューアルオープンした練馬区立牧野記念庭園記念館の学芸員となり現在に至る。植物学者・牧野富太郎をはじめ植物と関わったさまざまな人たちの展示を手掛ける。

※シン・マキノ伝の第1部(1~9回目)は下記の「一覧」をクリックいただくとご覧になれます※

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