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2022.11.13 08:42

初子・園子の死、悲しみからの出発 シン・マキノ伝【26】田中純子(牧野記念庭園学芸員)

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(園子が空へかえった、らんまん第18週を記者が語る音声コンテンツです↑)

寿衛と子どもたち(高知県立牧野植物園所蔵)

寿衛と子どもたち(高知県立牧野植物園所蔵)

 明治26(1893)年を迎えた。牧野富太郎はこの年31歳になる。この年はとても悲しい出来事で始まった。郷里に帰っていた牧野の下に、最初の子である園子が亡くなったという知らせが届く。とるものもとりあえず、上京したことであろう。日記には、1月19日に「九時頃東京着」、翌20日に「墓地を改め午後3時園子の葬式をなし、夜に入りて帰る」と書かれる。牧野富太郎のお墓は、東京では谷中の天王寺(東京都台東区)にある。おそらく園子のために東京で求めた墓地であろう。

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 牧野が郷里を離れ、東京で所帯を持つようになって数年。昨年はずっと郷里に滞在していた。東京に住み慣れたとはまだ言えない頃である。そのような状況で墓を定めなければならなくなって、困惑したはずである。自叙伝によれば、「夫婦差し向かいの愛の巣を営んだ」場所は根岸の御院殿跡(東京都台東区)であった。そこで園子が生まれたであろう。その後、牧野が郷里に戻ることになって麹町区三番町(東京都千代田区)を留守宅とした。愛しい子供の永久の安らぎの場としておそらく思い出深い新居に近い場所を探し、天王寺に決めたのではないか。

 こうしたなすべきことに追われて一段落したころ、どうしようもない悲しみが募ってきたことと察せられる。22回の記事で挙げた大原富枝著「草を褥に―小説牧野富太郎」(小学館、2001年)に収載される、明治26年5月に妻・寿衛に宛てた手紙に、この世では二度と会うことのない園子への哀惜の念が語られる。5歳になるかわいい盛りの娘を思い、そばに居られなかったという後悔に責められたであろう牧野の気持ちには、ひとしお胸に迫りくるものが感じられる。

 園子の死に追い打ちをかけるがごとく、郷里の家財を整理して財産がほとんどない状態となった牧野は、これ以降経済的な困窮と闘っていかねばならず、同時に大学の植物学教室における対立も起きるようになる。第2の受難の始まりである。郷里にいる間に、東京大学の松村任三(1856~1928年)より「大学へ入れてやるから至急上京しろ」という手紙が送られてきて、牧野は「家の整理がつき次第上京する、よろしく頼む」という返信をしていた。そして、東京に戻ってから、2月に帝国大学理科大学より植物整理及び植物採集を委嘱され、9月に理科大学助手に任じられた。「民間から」(という言葉を牧野はよく使う)大学の職員になり、給料をもらうことになったのである。15円であった。その金額ではとてもつましく生活したとしても、家族がいて暮らしていくことはできず、借金がかさんでいった。

 ここで松村任三に触れておくと、14回目の記事でその名は挙げたが、常陸国(現茨城県)の出身で、明治維新後大学南校で学び明治10年に小石川植物園に奉職、矢田部良吉に師事した。その後助手となり、ドイツ留学を経て明治23年から教授になった。矢田部の採集旅行に同行した松村は、標本を製作・検定し標本室に収めて、東京大学の植物標本室の基礎を築くことに尽力した。また、明治19年に和名と学名を対応させた日本植物の総覧「日本植物名彙」や、明治37年から同45年にかけて日本植物を集大成した総合目録「帝国植物名鑑」を刊行した。

 話は以前にさかのぼるが、第1の受難で矢田部の圧迫を受けた牧野は、杉浦重剛(1855~1924年)や菊池大麓(1855~1917年)にこの一件を話して、2人はその処置を不当として牧野に同情したと自叙伝にある。それによれば、雑誌「亜細亜」に関連する記事が載ったのは杉浦の指図があったからと聞き、牧野が助手になったのは菊池の推挙によるということである。また、矢田部の非職については、菊池との権力争いがあったという。18回の記事で紹介した「矢田部良吉年譜稿」においても、菊池と箕作佳吉兄弟との対立関係に矢田部があったことが示されている。杉浦は、雑誌や新聞などを通して国粋主義的な言論や教育活動を行った人物である。また、菊池は幕末から明治にかけて2度イギリスに留学して数学や物理学を学び、帰国後東京大学教授となる。政治的手腕も兼ね備え、文部次官・文部大臣も務めた。菊池は父の家を継いで菊池姓になったが、父親は津山藩の洋学者箕作秋坪であり、弟佳吉はアメリカに留学し動物学を専攻して東京大学教授に就任した人物である。

 菊池は専門が異なっても同じ大学の理科大学(理学部)であるので、牧野が知遇を得る機会はあったであろう。しかし、杉浦や15回の記事に登場した、祖母・浪子の墓誌に携わった本居豊頴(とよかい)らは東京大学で教えたことはあるが、どのようにして知り合ったのであろうかと不思議に思った。2人に出会った経緯は今のところ不明である。しかしである。牧野は、つてがあるないにかかわらず、また知り合いかどうかも関係なく、必要とあらばその人を直接に訪ね、自分の主張なり意見なりをはっきりと述べ伝えることができる行動派の人ではなかったか。

 そうこうするうちに借金が増えて2000円ほどになった。そこで助け舟を出してくれたのが、土方寧(やすし)=1859~1939年=であった。土方は牧野と同じ佐川の出身で、イギリス留学後の1891年に帝国大学法科大学教授に就任した人物である。牧野の窮状に同情を示した土方は、その頃の大学の総長・浜尾新(1849~1925年)に、「日本植物志図篇」を見せて何とか給料を上げてやることはできないかと頼み込んでくれることになる。このことをきっかけに、牧野の金字塔と言えるあの「大日本植物志」が生み出されることになる。

 牧野の交流・交友関係は幅広い。当時は今まで以上に同郷のよしみが強い時代であったと思うが、周囲には牧野を支持してくれる人がいて、このことが常に、牧野にとって前進していく大きな支えになったと思う。(田中純子・練馬区立牧野記念庭園学芸員)

※シン・マキノ伝の全編はこちらから!※

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 長期連載企画「シン・マキノ伝」は、生誕160年を今年迎えた高知県佐川町出身の世界的植物学者・牧野富太郎の生涯をたどる最新の評伝です。筆者は東京の練馬区立牧野記念庭園の田中純子・学芸員です。同園は牧野が晩年を過ごした自宅と庭のある地にあり、その業績を顕彰する記念館と庭園が整備されています。田中学芸員は長らく牧野に関する史料の発掘や調査を続けている牧野富太郎研究の第一人者です。その植物全般におよぶ膨大な知識の集積、目を見張る精緻な植物図の作成、日本全国各地の山野を歩き回ったフィールド・ワーク、およそ40万枚もの植物標本の収集、そしてその破天荒ともいえる生き方……。新たに見つかった史料や新しい視点で田中学芸員が牧野富太郎の実像を浮き彫りにする最新の評伝を本紙ウェブに書き下ろします。牧野博士をモデルにしたNHK連続テレビ小説「らんまん」が始まる来年春ごろまで連載する予定です。ご期待ください。
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 たなか・じゅんこ 1964年、東京生まれ。上智大学大学院修士課程卒業(歴史学専攻)。中高等学校で教師を勤めた後、東京国立博物館で江戸から明治時代にかけての博物学的資料の整理調査に当たる。2010年、リニューアルオープンした練馬区立牧野記念庭園記念館の学芸員となり現在に至る。植物学者・牧野富太郎をはじめ植物と関わったさまざまな人たちの展示を手掛ける。

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