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2022.10.18 08:30

「天然の教場で学ぶ」シン・マキノ伝【15】=第2部= 田中純子(牧野記念庭園学芸員)

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 牧野は、東京でもしかり高知に戻ってからも植物の採集に精を出した。先述の「赭鞭一撻(しゃべんいったつ)」にあるように、本を参考にすれこそそれに安住することなく、また学校で学ぶということもなかったので、牧野は「日夕天然の教場で学んだ」のであり、「断えず山野に出でて実地に植物を採集しかつ観察」して、植物の知識を集積していったのである。この言は自叙伝にある。すでに紹介した「博物邇言(じげん)集」には、「植物採集記」という見出しの下、明治17(1884)年9月から10月にかけて採集に赴いた場所の記録がある。五台山村を皮切りに須崎に2度、横倉山などに出掛けたことが読み取れる。

甲:ヒロハノエビモ・乙:ササエビモの図(植物学雑誌第1巻第1号所収).jpg

ヒロハノエビモ=右=とササエビモの図(植物学雑誌第1巻第1号所収)

 こうした採集行が新聞に取り上げられたこともあった。すなわち、明治18年8月、夏季休暇を利用して、高知師範学校教員・永沼小一郎ら教員、生徒および「植物家牧野富太郎」らが愛媛県との境にある深山に分け入り「余程稀有の珍草」を採集したことが記される。道すがら石鎚山にも登ったということである。この山は、6月の10日間山開きとなり、登山者は斎戒沐浴(もくよく)して白衣を着て山伏のごとき姿で参詣することになっていた。その他の時期に肉食をした人が登れば天狗によって山頂から投げ落とされる、といった言い伝えがある山であった。永沼ら一行は肉食も慎まず…

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