2024年 04月29日(月)

現在
6時間後

こんにちはゲスト様

高知新聞PLUSの活用法

2022.10.16 05:00

「学問の自由を求めた政治活動」シン・マキノ伝【13】=第2部= 田中純子(牧野記念庭園学芸員)

SHARE

 話を進めよう。当時、土佐出身の板垣退助が指導する自由民権運動が広がりを見せる中、明治14(1881)年、自由党が創設され、「自由は土佐の山間から出る」と言われるほど土佐では自由党が盛んとなった。当然、牧野も自由党員であった。牧野も政治に関する書物を読み、人間は自由・平等であるべきだという考えに共感していた。自由党の懇親会に参加していたことは、「土陽新聞」(明治16年9月)の記事からも分かる。これより後のことであろう、やがて自由党を脱退することを決めた。どうもわいわい言って騒いでいるだけで、国家のためなら政治家に限ったことではなく、学問をやっても国家のためになろうと考えたからである。そして、やめる時に一芝居をうった。それは仁淀川の美しい河原で開かれた自由党懇親会に出席した時である。席半ばにして、特別に作らせた、魑魅魍魎(ちみもうりょう)のいるところへ太陽が昇る図柄の旗を押し立て、世を風刺した新体詩を歌って会場を出た。その場にいた人たちはあっけにとられたという。

自由民権運動に関わっていた頃の牧野富太郎=中央。佐川の青年たちとりりしい表情で写っている。右端は佐川町の青山文庫の前身を創設した川田豊太郎(川田隆生さん所蔵、高知県立牧野植物園提供)

自由民権運動に関わっていた頃の牧野富太郎=中央。佐川の青年たちとりりしい表情で写っている。右端は佐川町の青山文庫の前身を創設した川田豊太郎(川田隆生さん所蔵、高知県立牧野植物園提供)

 同じ頃、佐川町に「公正社」という結社があって牧野は参加していた。この結社は、勉学を志す若者の集まりで勧学の手段を講じ、具体的には、夜学や演説会を毎日のように行った。6・7回目の記事で登場した堀見克礼は東京から帰って体操を始め、こん棒などを振り回し、牧野もそれを求めて振り回していたという。また「公正社」とは別に、牧野が仲間と「格物雑誌」を作ったのもこの頃であろう。科学研究の急務を感じた者たちがその研究を発表する場を提供するものであった。

 以上のことは、自叙伝および「佐川と学術との関係 附現代植物学界に対する意見」(「霧生関」第25号、1911年所収)に書かれたことである。また、牧野のあまり知られていない若い頃の社会的な活動を紹介した論考として、「牧野富太郎博士と佐川町」(「佐川史談 霧生関第37号、牧野富太郎博士特集号」2001年所収)がある。これは、佐川町で教鞭(きょうべん)を執り、牧野の志を継いで「土佐文化向上会」を戦後設立した水野進氏が…

この記事の続きをご覧になるには登録もしくはログインが必要です。

高知のニュース WEB限定 牧野富太郎 シン・マキノ伝

注目の記事

アクセスランキング

  • 24時間

  • 1週間

  • 1ヶ月