2022.10.15 08:30
「本を家とせず、友にすべし」シン・マキノ伝【12】=第2部= 田中純子(牧野記念庭園学芸員)
牧野の生家そばにある金峰神社への石段(高知県佐川町)
「霧生関 第25号」(1911年)に掲載の「佐川と学術との関係、附現代植物学界に対する意見」の中で、明治前期のことであろう、佐川で行われたキリスト教の布教について、「最も私はあんな物が大嫌いの方であるから、勢い此方から攻撃もし論難もしたのであるが、宗教が科学の世界を侵す事は出来ないで反って余程佐川ではその伝導が妨げられた様な次第であった」と述べている。また、自叙伝にある「私の健康法」の中の「信仰」という項目において、「信仰は自然その者がすなわち私の信仰で別に何物もありません。自然は確かに因果応報の真理を含み、これこそ信仰の正しい標的だと深く信じています。恒に自然に対していれば私の心は決して飢える事はありません」と書いている。絶えず自然の中にあってその恩恵を感じ、自然が花の姿となっておのずと現れる、そこに牧野の信仰があったと思う。
さて、牧野は、「赭鞭一撻」を「余ガ年少時代ニ抱懐セシ意見」というタイトルで「植物研究雑誌」(第1巻第6号)と自叙伝に載せている。前者は大正6(1917)年、55歳の時に、後者はその内容から昭和22(1947)年ごろ、85歳の時にそれぞれ書かれたものである。前者では「我ガ頭ニ多少白髪ガ駁(ま)ジル様ニナッタ」とあり、後者は「今は全くの白頭になった」とあるので、年月の隔たりを感じさせる。しかしながら、自叙伝に書かれた「なんぼも実績が挙がっていないのに一驚を喫する」「その間何一つでかした事もないので、この年少時代に書いた満々たる希望に対して転(うた)た忸怩(じくじ)たらざるを得ない」といった牧野の所感は前者にもほぼ同様な記述が見られる。前者では、近頃偶然箱の底から見つけたと書き出しにあるが、「赭鞭一撻」は牧野にとって絶えず心にあるもので、実行したいがなかなか果たすことの難しい目標であったように思われる。だからこそ、ほぼ50年という人生の半ばと言える頃と、太平洋戦争終結後の間もないおそらく再生の頃に牧野は取り上げたのではないだろうか。
最後に、これだけのボリューム感のある目標を20歳ぐらいの年齢で打ち立てられたことは手放しで素晴らしいと感じる。研究のために何をすべきかということを一つ一つ具体的に打ち立てることができたこと、それらをほぼ実践して進んでいったことは、やはり意志の強さと先を見通す力が若い時にしっかり備わっていたということである。(田中純子・練馬区立牧野記念庭園学芸員)
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長期連載企画「シン・マキノ伝」は、生誕160年を今年迎えた高知県佐川町出身の世界的植物学者・牧野富太郎の生涯をたどる最新の評伝です。筆者は東京の練馬区立牧野記念庭園の田中純子・学芸員です。同園は牧野が晩年を過ごした自宅と庭のある地にあり、その業績を顕彰する記念館と庭園が整備されています。田中学芸員は長らく牧野に関する史料の発掘や調査を続けている牧野富太郎研究の第一人者です。その植物全般におよぶ膨大な知識の集積、目を見張る精緻な植物図の作成、日本全国各地の山野を歩き回ったフィールド・ワーク、およそ40万枚もの植物標本の収集、そしてその破天荒ともいえる生き方……。新たに見つかった史料や新しい視点で田中学芸員が牧野富太郎の実像を浮き彫りにする最新の評伝を本紙ウェブに書き下ろします。牧野博士をモデルにしたNHK連続テレビ小説「らんまん」が始まる来年春ごろまで連載する予定です。ご期待ください。
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たなか・じゅんこ 1964年、東京生まれ。上智大学大学院修士課程卒業(歴史学専攻)。中高等学校で教師を勤めた後、東京国立博物館で江戸から明治時代にかけての博物学的資料の整理調査に当たる。2010年、リニューアルオープンした練馬区立牧野記念庭園記念館の学芸員となり現在に至る。植物学者・牧野富太郎をはじめ植物と関わったさまざまな人たちの展示を手掛ける。
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